「松林宗恵氏は、私の無二の親友であり、又映画の監督でもある」森繁久彌が松林監督が書いた自伝“私と映画・海軍・仏さま”の冒頭に寄せた一節である。松林監督は仏教の大学を出て映画界に入った珍しい経歴の持ち主で、最初に入った東宝撮影所ではスタッフや俳優たちから“和尚”と呼ばれ(名付けたのは高峰秀子)ていた。仏教大学に在籍中に観た記録映画『大乗の国』に感銘を受け、映画を学ぶために日本大学法文学部芸術学科に入学。その後、ダメ元で受けた東宝の入社試験に受かるのだった。「私は希望に胸をふくらませて成城の東宝撮影所の門をくぐった」昭和17年10月1日、助監督として青柳信雄監督についた松林青年はその時、チーフ助監督をしていた市川昆から映画について教わり、その後も親交を深めていくことになる。『ハワイ・マレー沖海戦』や『決戦の大空へ』といった戦意高揚映画の助監督を努めた頃、世の中は太平洋戦争一色できな臭い雰囲気が漂っていた。…にも関わらず、映画が好きで入ったこの世界…松林青年は充実した毎日を送っていたという。しかし、入社一年で、松林青年は海軍に入ることになった。海軍少尉に任官された彼は、海軍の倉庫で少年兵と出会う。彼は、松林が助監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』と『決戦の大空へ』を観て志願したという。その少年兵は、松林と共に上鑑した戦艦が被弾して不運にも重傷を負い、松林の目の前で戦死してしまう。この自分が関わった映画を観て志願した少年兵の最後は、松林監督の映画作りに大きな影響を及ぼしたと言っても良いだろう。戦争とは何か…人間の幸せ、平和な社会とは…その答えを模索しながら『人間魚雷回天』『世界大戦争』を作り上げたに違いない。事実、戦後10年を経て作り上げた『連合艦隊』で死んだ少年兵と同姓同名の特攻隊員が出てくる事からも、忘れられない思い出として焼き付いていたのが理解できる。
 軍隊での生活は、後に松林監督が手掛けた映画の中で反映されている。特に食事のシーン…社長シリーズでは様々な食事のシーンが登場して、そのどれもが面白可笑しく作っていながら、出演している役者たちは、実に上手そうに食べてくれる。戦艦に乗っていたせいで早食いがクセになり、社長になった今でも忙しなく食べる森繁の演技は最高に面白かった。戦争中ろくに食べる事が出来なかった経験が食べ物に対する意識を高めたのだろうか?ともかく、映画の中に出て来る料理は、どれもが美味しそうなのだ。ところが、実際小道具係が用意する料理は見た目と異なり不味い。松林監督は自伝の中で「どんなに不味い食べ物でも小林桂樹は、美味しそうに食べてくれて、彼の食い芸は名人の域に達している」と絶賛していた。『社長道中記』における森繁社長にゲテモノの缶詰めを食べさせられるシーン…それらを食べ分ける演技は最高だった。戦争体験は松林監督の作品に多かれ少なかれ影響を与えていたように思う。『社長太平記』の中でかつて戦艦の艦長だった加藤大介が娘に内緒で、海軍キャバレーで昔を懐かしむシーンが出て来る。海軍で青春時代を過ごした松林監督自身、海軍をこよなく愛していたと、語っている。実際、松林監督は森繁と二人で杯を交わす時に“戦友”を歌っていたという。これは、決して軍国主義を懐かしんでいるのではなく、その悲しい時代に共に生きた仲間(同胞)との思い出が、そうした歌の中に詰まっているのだ。
 終戦後、再び映画の世界に戻った彼の目に映ったのは労働組合の赤い旗がたなびくきな臭い雰囲気の撮影所とは呼べない場所であった。そんな東宝から飛び出した斎藤寅次郎監督について新東宝の門をたたいた松林青年は、ここで喜劇のコツを修得する事となる。自身も「喜劇映画が多かったのも斎藤監督から知らず知らずのうちに喜劇演出の薫陶を受けていたおかげ」と語っている。いよいよ『愛の世界』で監督デビューして、いくつかの作品を送り出したところで東宝重役だった名プロデューサー藤本真澄から「東宝へ戻ってこないか?」と誘われ、昭和30年に東宝に還ったのをキッカケに数多くの作品を発表する。中でも代表的なのは、ご存知、社長シリーズ。『社長三代記』から始まり23作を手掛けている。もっとも本人は『社長太平記』で「最後にしてくれ」と頼んだらしいのだが…。それが『社長道中記』を皮切りに地方を舞台とした観光映画としても大当たりして全国の観光地からタイアップの依頼が殺到したほどだ。このシリーズの良いところは、社長が毎回浮気をしようと画策するのだが寸前で上手く行かない…これが世の奥様方にもウケたというわけだ。実は、コレ仏教の世界で僧籍に松林監督はある事が大きく関係している。社長シリーズを通して心掛けたのは“信頼”というテーマだった後に語っている。妻に対する浮気が実行されずに終わる事が大切だったのだ。さて、社長シリーズの良さは何と言っても森繁を筆頭に芸達者が勢揃いしている事。森繁は何パターンかアドリブを披露して、その中からベストを選んだという。特に三木のり平のアドリブは、秀逸で毎回大笑いさせられる。松林監督は、俳優たちから最高のアドリブを引き出すために、ノッている表情を見せずに冷静を装いつつ満足しているのを俳優たちに分からせる…松林監督曰わく「監督にも演技が必要だ」という事である。
 しかし、日本映画界は斜陽の時期に突入すると『社長学ABC』を最後に社長シリーズは終焉を迎え、しばらくメガホンを取ることがなかった。そんな松林監督に再び、声がかかったのが、森繁久彌芸能生活四十周年映画『喜劇・百点満点』である。その話しを持ってきた椎野英之プロデューサーは、製作途中で急逝してしまうというショックの中、完成させた作品は、森繁の芸達者ぶりを余すことなく全て見せ切ってくれた素晴らしいものに仕上がっていた。中でも、三木のり平とのやり取りをカット割なしの長回しで撮ったシーンは最高だった。映画監督であり僧侶であり軍人でもあった相反する人生を送ってきた男・松林宗恵。それは、まるで彼に天が与えた使命のようにも思えるのだ。


松林 宗恵(まつばやし しゅうえ) SHUUE MATSUBAYASHI
1920年7月7日 島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)の浄土真宗の寺の五男に生まれる。
小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学、二年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し広島市へ出た。1938年卒業後京都へ進み龍谷大学から日本大学藝術学部に移り、在学中に映画に仏心を注入したいと考え東宝撮影所の助監部に入る。生家は西本願寺派の末寺で、「仏門に生まれ、仏門に育った身として、映画の中に仏教を生かし、仏教の中に映画を生かしたい」と思い映画界に入ったという。学部を短縮卒業して海軍第三期予備学生となり、1944年、海軍少尉に任官、部下150名を連れて南支那厦門島の陸戦隊長となる。戦後復員して東宝に復職。その後、東宝争議に際し、渡辺邦男、斎藤寅次郎らに従って新東宝に移った。
1952年に上原謙主演の『東京のえくぼ』で初監督。藤本真澄プロデューサーの東宝復帰に伴い、新東宝を退社して東宝に復帰。以降は、森繁久彌主演の『社長シリーズ』をはじめとする喜劇や『連合艦隊』をはじめとする戦争映画など、多岐にわたる68本の劇映画を監督した。自らの作家性よりも脚本の意図に忠実に撮影する職人気質で知られるが、仏心を描こうと常に心がけていたという。
現在は主に講演活動などに従事。2004年3月には、故郷である江津市桜江町の「水の国/ミュージアム104"」内に、「松林宗恵映画記念館」がオープンした。
(Wikipediaより一部抜粋)
(松林宗恵映画記念館HP http://iwamiyoitoko.com/

主な代表作

昭和27年(1952)
水色のワルツ
東京のえくぼ

昭和28年(1953)
ハワイの夜
青春ジャズ娘

昭和29年(1954)
花と波濤
慈悲心鳥

昭和30年(1955)
人間魚雷回天
月に飛ぶ雁
浅草の鬼

昭和31年(1956)
あなたも私もお年頃
兄とその妹
婚約指輪

昭和32年(1957)
美貌の都
青い山脈 新子の巻
続青い山脈 雪子の巻

昭和33年(1958)
社長三代記
続社長三代記
風流温泉日記
大学の人気者

昭和34年(1959)
社長太平記
潜水艦イ-57降伏せず
夜を探がせ

昭和35年(1960)
現代サラリーマン
 恋愛武士道
ハワイ・ミッドウェイ 大海空戦太平洋の嵐

昭和36年(1961)
社長道中記
続社長道中記
 女親分対決の巻
世界大戦争

昭和37年(1962)
サラリーマン清水港
続サラリーマン清水港
新・狐と狸

昭和38年(1963)
太平洋の翼
社長外遊記
続社長外遊記

昭和39年(1964)
社長紳士録
続社長紳士録
こんにちは赤ちゃん
万事お金

昭和40年(1965)
社長忍法帖
続社長忍法帖

昭和41年(1966)
社長行状記
続社長行状記
てなもんや東海道

昭和42年(1967)
社長千一夜
#続社長千一夜
てなもんや幽霊道中

昭和43年(1968)
社長繁盛記
続社長繁盛記

昭和44年(1969)
社長えんま帖
続社長えんま帖

昭和45年(1970)
社長学ABC
続社長学ABC

昭和51年(1976)
喜劇 百点満点
恋の空中ぶらんこ

昭和54年(1979)
関白宣言

昭和56年(1981)
連合艦隊

昭和58年(1983)
ふしぎな國

平成4年(1992)
勝利者たち




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