大阪の新世界…通天閣のお膝元で即席の小屋を建てて行われるテント劇場で、余興のストリップが終わった途端ゾロゾロと席を立つ観客に向かって西村晃と高原駿雄演じる役者が舞台の上から叫ぶ。「待っとくんなはれ、これから面白い芝居が始まんのやでぇ」そこで流れるアコーディオンの軽妙なテーマ曲に合わせて表れるタイトル。映画は、戦後間もない河内の田舎に流れて来た芸人と村人たちのドタバタを描く、今村昌平監督のデビュー作『盗まれた欲情』(昭和33年)。一座のトラックがやって来ると、村人たちが群がる光景は、フェデリコ・フェリーニの映画のようだ。音楽を手掛けたのはクラシックや現代音楽などで日本を代表する音楽家・黛敏郎。本作から『神々の深き欲望』まで、今村監督作品を11作品も手掛けている。以前、シネマート六本木で日活名曲アルバムと銘打って黛敏郎を特集上映された時、幅広いジャンルの音楽様式に驚いた記憶がある。そのプログラムの中にあったのが、閉山の危機に直面する九州の炭坑を舞台に、貧困の中で逞しく生きる四人兄妹を描いた『にあんちゃん』(昭和34年)だった。主人公の“にあんちゃん”を演じた沖村武少年が素晴らしく、「貧しくとも施しだけは受けない」と、同情を全て突っぱねる凛とした健気さに感動した。そんな少年の姿にマンドリンの音色が寄り添うように優しく流れる。上野音楽学校作曲科に在学中に卒業制作で、フランス風な感覚とジャズを掛け合わせた作品を既に発表していたと聞いて、なるほど…と納得した。確かに『巴里の空の下』のアルマン・ベルナールや『道』のニーノ・ロータの楽曲がそうだったように、黛は寒村に暮らす人々の高揚感や躍動感を軽快なリズムで表現していた。

 『にあんちゃん』は、今村監督作品の中でも好きな作品だが、監督自身はこうした涙を誘うような情緒的な作品は嫌いだったという。この映画の撮影中に監督と黛の意見が分かれたシーンがあった。末っ子が修学旅行先で、姉と久しぶりに再会をするシーンだ。ここで感動的な曲を書いてきた黛に対して、映画に感情を助長させるような音楽は必要ないと考える今村監督は書き直しを要求したのだ。最初は抵抗していた黛だったが、結局譜面を書き直した。完成した曲は、再び離れ離れになる姉妹に重く伸し掛かるもので、それが逆に悲しみを誘ったのである。この頃、既に黛は「従来の日本映画特有の…哀しいシーンには哀しい曲を、愛を語るシーンでは甘美な曲を…という素人向きな見え透いた定理に対して予てより疑問を抱いていた」と、語っている。だからこそ、今村監督の意図するところはすぐに理解出来たのだろう。そういった観点から『にあんちゃん』を改めて観てみると、音楽はギリギリのラインで盛り上がりを抑えており、これ以上、音楽だけが感動的な方向に突っ走ると、作品全体がかなりシラケたものになっただろう。『盗まれた欲情』にしても『にあんちゃん』にしても歌と踊りを付ければオペレッタ的要素がふんだんに含まれた題材だ。

 在学中に伊福部昭の元で作曲を学んだ時に映画音楽に活動の拠点を置く決意をした黛は、卒業後、松竹音楽部の専属となった。最初に手掛けた予告編用の音楽を聴いた大庭秀雄監督が気に入り、『帰郷』(昭和25年)は共作というかたちでクレジットされているが、実際には全て黛が手掛けたものだった。なかなか映画館では掛かる機会が少ない本作だが、幸運にも一度だけ観る事が出来た。本作は松竹お得意のメロドラマであり、戦時下のシンガポールで恋に落ちた佐分利信演じる元軍人と木暮実千代演じる料亭の女将が、再び前後の日本で再開する物語だ。男は日本に妻と娘(若き津島恵子)がいる。ある事件で死んだと聞かされていた父親が生きていると知った娘が、尾行するシーンに流れる不安定な曲を黛は、メロディアスな曲を排して、フラジオレットという楽器本来の使い方ではない演奏法演奏法で、心理的に不安定な音楽を創り出した。その直後に留学したパリから帰国するとミュジーク・コンクレートや電子音楽等々…最新の前衛音楽の様式を次々と紹介する。唸るような男性コーラスでお経を歌い上げるオープニングの『修善寺物語』(昭和30年)は、強烈な印象を残した。

 こうした新しい音楽を送り出していた黛に対して、ある評論家がかなり辛口の批判をしたことから紙面上で討論が行われる事態が発生する。溝口健二監督の『赤線地帯』(昭和31年)だ。摩訶不思議な電子楽器による聞き慣れない音色に、批評家・津村秀夫が週刊朝日の映画欄で、『赤線地帯』の音楽が大誤算で作品に合わず、この失敗がなかったら残念である…と批判した。それに対して黛も公開状として、自身の音楽作りに関する手法や考え方などを事細かに提示して反論。日本映画界でも珍しい論争がしばらく続いたのだ。両者のやり取りについて、評論家の岡俊雄が興味深い見解を述べていた。今まで語られる事が無かった映画の中における音楽について「(要約)主張が過度であっては浮き上がってしまう。時間と空間の計算によって成立している映画の演出の中で、従来の映画音楽は時間的な要素をアンダーラインする考え方からつけられていた」という岡の言葉は確かに的を得ている。しかし、溝口監督のような作家性の強い監督から求められているのは音楽に新しい次元を獲得するところから踏み出さなくては成立しないということ。事実、1956年9月下旬号のキネマ旬報で、黛が芥川也寸志・斎藤一郎との座談会で、黛は「監督のイメージを自分のイメージとして再形成して、自分の持っている音楽のイメージを発展させているだけ」発言している。最終的には、こうした議論において結論など出るはずも無く自然と終息してしまったが、最終的に判断するのは個々の観客であることは間違いない。勿論、何年も経って再評価されることだってあるので、こうした議論を都度繰り返されることで作り手の真意を知る機会が得られるのは大歓迎だ。

 『赤線地帯』のような都会の歪みで生きる人間たちを描いた映画で、黛の書く斬新とも言える音楽様式は映像に最大の効果を付加していたのは事実だ。今村監督が最も油の乗っていた『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』『「エロ事師たち」より人類学入門』などがそうだ。重喜劇と呼ばれる作品において、滑稽なメロディを用いることで人間の愚かさを浮き彫りにする。実際、黛はフランス音楽と映画について…「緊張しきった格闘のシーンに間のびしたブルースが流れたり、死体にかがみこんで嗚咽する悲劇的場面に陽気なパソ・ドブルが聞こえてきたりするような、フランス映画専売の表現には文句なく喝采を呈する(キネマ旬報1956年臨時増刊号 フランス音楽と映画より)」と、述べている。在学中からフランス音楽に傾倒していた黛らしい意見ではないか。西村昭五郎監督の『競輪上人行状記』(今村昌平は脚本を手掛けている)では、実家のお寺を引き継いだ実直な男が再建のために競輪に手を出したために堕ちていく姿を描いているのだが、そのオープニングはフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズの幻想交響楽(キューブリックの『シャイニング』のオープニングで使用されていたあの曲)をコミカルにアレンジされていたのには笑ってしまった。

 数多く今村監督の音楽を手掛けてきた黛敏郎だが、それ以外にも200本近くの映画音楽を手掛けてきた作品群の中で最も好きなのは、松本清張の原作小説を野村芳太郎監督が手掛けた刑事ドラマ『張込み』(昭和33年)のオープニングだ。横浜駅から鹿児島行きの列車に飛び乗る二人の男。逃亡している強盗殺人の共犯者が、かつての恋人の元を訪れる可能性があるため、女の住む佐賀へ張込みに向かう刑事の数日間に肉迫する。張込みの定宿に使う旅館に落ち着き、向かいの家に住む対象の女を見た大木実演じる若い刑事の「さぁ、張込みだ!」というモノローグと共に始まるタイトルロール。ここで流れるアップテンポでスリリングな黛の音楽が滅茶苦茶カッコイイのだ。このスリリングな音楽は、ヒッチコック作品を多く手掛けた作曲家バーナード・ハーマンを彷彿とさせる。これは、今村監督の『果しなき欲望』で走る列車の向こうにタイトルロールが吸い込まれるシビれるオープニングで掛かる音楽にも共通して言える事だ。そう言えば、『張込み』でも犯人の田村高広とその元恋人を演じる高峰秀子が乗る列車を刑事がタクシーで追跡する様子を俯瞰のワンカットで捉えた劇中最大の見せ場とも言えるシーンでもこの音楽が流れていた。黛の音楽は疾走する列車のスピード感に合うのかも知れない。


黛 敏郎(まゆずみ としろう 1929年2月20日-1997年4月10日)
TOSHIRO MAYUZUMI  神奈川県横浜市出身
 旧制横浜一中(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に進学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事した。在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人として映画音楽も多く手がけ、東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった。 1949年に卒業後は松竹に入社して、共作としてクレジットされた『帰郷』で毎日映画コンクール音楽賞を受賞した。その年の8月にはフランス政府受け入れの留学生としてパリ国立高等音楽院に入学する。帰国後の1958年には『気違い部落』と『幕末太陽伝』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。1965年の『君も出世ができる』で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞967年に『天地創造』に米国ゴールデングローブ賞を受賞している。その後も映画音楽だけではなく。数多くのオペラを手掛け、1986年に初演されたバレエ《The KABUKI》はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場など海外でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演、22万人が鑑賞している。1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院にて逝去した。


【参考文献】
角日本映画音楽の巨星たち〈2〉

231頁 21.2 x 15.2cm ワイズ出版
小林淳【著】
3,024円(税込)

主な代表作

昭和25年(1950)
帰郷
花のおもかげ

昭和26年(1951)
あゝ青春
我が家は楽し
恋文裁判

昭和27年(1952)
あの手この手
カルメン純情す
泣虫記者
足にさわった女

昭和28年(1953)
やっさもっさ
プーサン
愛人
夏子の冒険
岸壁
暁の市街戦
旅路

昭和29年(1954)
噂の女
鶏はふたたび鳴く
江戸の夕映
女人の館
真実一路
潮騒

昭和30年(1955)
あこがれ
あした来る人
修禅寺物語
女の一生
青春怪談
東京の空の下には

昭和31年(1956)
女の足あと
赤線地帯
白い魔魚
風船

昭和32年(1957)

気違い部落
集金旅行
幕末太陽傳
誘惑

昭和33年(1958)
盗まれた欲情

張込み
西銀座駅前

果しなき欲望
女であること

炎上

昭和34年(1959)
お早よう
にあんちゃん
グラマ島の誘惑
パイナップル部隊
密会

昭和35年(1960)
あした晴れるか
女が階段を上る時
女の坂
青年の樹

地図のない町

昭和36年(1961)
あいつと私
河口
好人好日
小早川家の秋
豚と軍艦

昭和37年(1962)
キューポラのある街
河のほとりで
黒蜥蜴
憎いあンちくしょう
当りや大将

昭和38年(1963)
にっぽん昆虫記
競輪上人行状記
光る海
残菊物語
泥だらけの純情
非行少女
武士道残酷物語

昭和39年(1964)
悪の紋章
仇討
月曜日のユカ
執炎
赤い殺意
猟人日記

昭和40年(1965)
城取り
大根と人参
東京オリンピック

昭和41年(1966)
“エロ事師たち”より
 人類学入門
沈丁花
天地創造

昭和42年(1967)
愛の渇き
人間蒸発
青春の海

昭和43年(1968)
“経営学入門”より
 ネオン太平記
黒部の太陽
神々の深き欲望

昭和44年(1969)
栄光への5000キロ
私が棄てた女

昭和45年(1970)
富士山頂

昭和53年(1978)
日本の首領 完結篇

昭和55年(1980)
徳川一族の崩壊

昭和59年(1984)
序の舞




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