東宝の文芸映画といえばこの人…と言われる程、数多くの名作を世に排出した豊田四郎監督。谷崎潤一郎、井伏鱒二、川端康成…等々、数えあげたらキリがない。本来、同じ東宝の成瀬巳喜男や松竹の木下恵介、小津安二郎と肩を並べる巨匠であるにも関わらず、駅前シリーズのようなプログラムピクチャーを作り続ける等、職人に徹した一面もある。タイプは違うが映画作りに対する姿勢は加藤泰監督に近いものを感じる。(あくまでも、選り好みせずに取り組む…という意味で。そう言えば森繁久彌は加藤泰監督が嫌いだったと語っていた)『夫婦善哉』を撮る際に、料亭に森繁を呼び出し、織田作之助の書いた原作を手に「これで日本映画に新風を起こすことが出来る」と熱く語ったエピソードが豊田監督を如実に表している。彼が作りあげる作品は誰が観ても分かりやすくありながら、人間の本質の奥深い部分まで掘り下げているから、何回観ても違った印象を受ける。豊田監督の上手いところは、主人公のみに焦点を当てる事はせず、周囲の人物もしっかりと描いているところだ。群像劇が多いのも、それ故の事であろう。例えば、スクリーン全体をひとつの絵として捉えた場合、正面に主人公を配置しつつ横からスーッと登場した第三者が、いきなり主人公の演技をかっさらってしまう。まるで、寄せ木細工のように人物が入れ替わるものだから、目が離せない。例えば『台所太平記』がイイ例だ。森繁演じる作家の家で働く数人の女中さんたちが忙しなくあっち行ったりこっち行ったり動き回り、常に誰かと誰かが絡むシーンが続く。家の中で展開されるシーンが殆どなのに広く感じるのは、画面隅々に至るまで無駄のない構図が豊田監督の映画には存在しているからであろう。同じ群像劇でも『駅前旅館』はかなり広く、旅館だけではなく上野の路地やら飲み屋横丁やら主人公が通りを歩いているだけで軒先から色んな人物が絡んでくる。豊田監督にとって映画は、スクリーンの空間をいかに楽しく埋めるか…であり登場人物のいないところで、それを埋めるのが街の風景やセットとなるわけである。
 人間を物語の中心に置きたいがため豊田監督の映画はロケーションよりもカメラアングルに都合が良いセット撮影が多い。あまりにも巨大な法善寺のセットを作ったため予算を使い果たし、『夫婦善哉』の撮影が頓挫したというのは有名な話しだ。おかげで豊田監督の映画に出てくる背景は人間ドラマと見事に融合された一枚の画となっているのだ。そのこだわりのおかげで、日本映画史に残る素晴らしいラストシーンが誕生(詳しくは『夫婦善哉』の紹介ページをご覧ください)した。また永井荷風の名作、山本富士子主演の『墨東綺憚』ではどぶ川の流れる売春街・玉の井の路地を精巧に作り上げ、雨降る中、主人公と出会う名シーンが生まれた。芥川比呂志の演じる作家が第三者的な傍観者となって山本富士子演じる娼婦の屋敷に訪れる様々な人種を豊田監督は巧みな演出で描き上げている。また、数多くの監督が手掛けた『四谷怪談』も豊田監督の手に掛かれば仲代達矢演じる伊右衛門を中心とした欲に駆られた人間達の醜い群像劇となってしまう。様々な人間ドラマが複雑に交差してひとつの世界が形成される豊田監督作品…それは、街のようでもある。東京の下町・佃島を舞台とした『如何なる星の下に』は正に、豊田監督が作り上げた街が実在の佃島に覆い被さったかのようであった。山本富士子を中心とした人間ドラマの中で秀逸なのは、何と言っても森繁演じる元亭主。豊田監督は、ダメダメ男を常に優しい視線で見ていることが映画を観ているだけでよく分かる。そう、豊田監督は人間がこよなく好きなのだ。
 人間好きの豊田監督が最後(厳密にはこの後市川昆監督と共同で1本撮っているのだが…)に選んだのは痴呆という孤独の中に立たされる老人問題。有吉佐和子のベストセラー小説『恍惚の人』は、いくら文芸映画を得意とする豊田監督といっても毛色が違いすぎた。全編モノクロの重々しい映像と痴呆症の老人を扱ったテーマは、それまでの豊田監督のイメージとはかけ離れたものであった。しかし、豊田監督には、映画界に入った時から既に死という概念が身近に存在していた。幼い頃から病弱で、二十歳までは生きられないだろうと言われ続け、学業は出来たにも関わらず、進学せずに撮影所に入ったのは長生き出来ないならば好きな事を…という気持ちからだったという。外で遊ぶ事が出来なかった豊田少年は文学を友として青春時代を過ごし、それが後の監督業に大きな影響を与えたのだから人生なんてものは何が起こるかわからない。だから、70を過ぎて脳溢血で倒れ、生死の境をさまよった豊田監督が、この老人問題をテーマを選んだのは、幼少期の体験があったからであろう。『恍惚の人』から4年後、北大路欣也の結婚式で倒れて帰らぬ人となったのは単なる偶然…と片づけるには本作のラストがあまりにも酷似し過ぎている。市川崑監督と共同で撮った『妻と女の間』の後に安楽死をテーマとした作品『歓喜の時がくる』の企画が進行中であった。この企画は、数年前に心筋梗塞で倒れた豊田監督に同じ病いで倒れた佐藤一郎の発想で、豊田監督はこの企画に打ち込んでいたという。幼少の時から長生き出来ないと言われ続け、常に死というものが近くに存在していた豊田監督だからこそ、生と死に関わるテーマに異様なまでの執着を見せたのであろう。


豊田 四郎(とよだ しろう) SHIROU TOYODA 1906年1月3日生まれ-1977年11月13日 没
京都市に生まれ、幼少期は病弱で、20歳まで生きられないだろうと言われていたが、京都府立一中卒業後、大正14年に松竹蒲田撮影所に入所し、島津保次郎の助監督を勤める。第1回監督作品は自身のオリジナル・シナリオによる昭和4年『彩られる唇』。昭和11年に独立プロの東京発声に映り、文学映画の映画化に成功し第一線の監督の仲間入りを果たす。その作品系列は、近代日本文学の中で、純文学作品の映画化に特別、情熱を燃やし続けていることにおいて際立っており、伊藤永之介の農民文学から阿部知二の知識人文学まで、谷崎潤一郎、永井荷風、川端康成などの消費的享楽的な文学から有島武郎、志賀直哉などのモラリスト的な文学まで、幅広くかつ多様にその才能を発揮している。昭和52年11月13日、俳優・北大路欣也のホテルオークラで行われた結婚披露宴で、祝辞を述べた直後に急激な心臓発作で倒れ、わずか数分で急逝した。71歳で60本の作品を作り上げた豊田監督の遺作となった『妻と女の間』は、市川崑監督との共同で製作されたが、その後にも企画として『歓喜の時がくれる』という安楽死をテーマにしていた作品が進行していた。
(Wikipediaより一部抜粋)
(松林宗恵映画記念館HP http://iwamiyoitoko.com/

主な代表作

昭和4年(1929)
彩られる唇
都会を泳ぐ女

昭和6年(1931)
愛よ人類と共にあれ

昭和9年(1934)
隣の八重ちゃん

昭和10年(1935)
三人の女性

昭和11年(1936)
大番頭小番

昭和12年(1937)
若い人

昭和13年(1938)
泣蟲小僧
冬の宿

昭和15年(1940)
小島の春

昭和16年(1941)
わが愛の記

昭和22年(1947)
四つの恋の物語
 第一話 初恋

昭和23年(1948)
わが愛は山の彼方に

昭和28年(1953)

昭和29年(1954)
或る女

昭和30年(1955)
麦笛
夫婦善哉

昭和31年(1956)
白夫人の妖恋
猫と庄造と
 二人のをんな

昭和32年(1957)
雪国
夕凪

昭和33年(1958)
喜劇 駅前旅館
花のれん

昭和34年(1959)
暗夜行路

昭和35年(1960)
珍品堂主人
墨東綺譚

昭和36年(1961)
東京夜話

昭和37年(1962)
明日ある限り
如何なる星の下に

昭和38年(1963)
憂愁平野
台所太平記
新・夫婦善哉

昭和39年(1964)
甘い汗

昭和40年(1965)
四谷怪談
大工太平記

昭和42年(1967)
千曲川絶唱
喜劇 駅前百年

昭和43年(1968)
喜劇 駅前開運

昭和44年(1969)
地獄変

昭和48年(1973)
恍惚の人

昭和51年(1976)
妻と女の間




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