明治45年の開業以来、大阪のシンボルとなった通天閣。その御膝元にある新世界には数多くの芝居小屋や映画館が建ち並び、大正時代には天王寺動物園が開園。それとは対照的に南東に隣接する飛田には関西最大規模の飛田遊廓が開設され、関西一の大歓楽街になった。戦後になるとヌード劇場やパチンコ屋が次々と出店し、高度経済成長期を支えてきた男たちが集う盛り場として更なる発展を遂げる。そんな時代は今は昔…最盛期には15館近くも軒を連ねていた映画館やヌード劇場も現在では6館を残すのみ。それでも、この界隈を根城としている昔ながらの馴染み客にとって、この場所にある映画館は自分だけのオアシス…正に男の聖城なのだ。そんな新世界で営業を続ける3つの映画館。通天閣の真下にある名画座『新世界東映』と成人映画館『日劇シネマ』、ゲイポルノ専門館『日劇ローズ』を経営する(株)松下商会の代表を務める米田実氏は「もう私も85歳ですわ。90歳までは頑張って、後は孫たちに引き継ごうと思ってます」と笑う。コチラの劇場以外にも『上六シネマ』『尼崎パレス』『福原国際東映』3館の成人映画館を経営している米田氏は定期的に各劇場を回っており、各劇場の責任者に指示を出されている姿は、とても85歳とは思えないほど精力的だ。

米田氏が興行の世界に入ったのは戦後間もない昭和22年。戦時中は軍関係の仕事を請け負っていた“大阪無線”というラジオ工場で働いていたが、2年もしないうちに終戦を迎える。「学校を卒業した昭和18年頃から働き始めたのですが、職が無くなってさて、どないしようと思っていたんです。何しろ戦後やしね、みんな会社も潰れてしまっていたから」と、途方に暮れていた米田氏だったが、戦後すぐに玉造にあった甲子園球場の大型スピーカーを扱う音響装置メーカーに就職。「まぁ、音響関係なら今までやってきた仕事と関係あるわ…と思ってすぐに就職して、その会社では劇場の音響もやってはったから丁度いいと。そこでは映写機のサウンドヘッドとアンプを組み合わせて販売していて、その内に自分でも作れるようになったのです」当時は映写機やアンプは地元の小さな工場で、それぞれ作られており大阪市内にもそういった工場が2〜3軒あったそうだ。

「当時は空襲で潰れた映画館が、これから再建しようという時でした。私が出入りしていた新世界を中心にいくつもの映画館を経営する新世界大弥興行(株)の副社長さんから、“いつも修理で来るんやったら、ずっとウチで見てくれや”と声を掛けられて、それを機に会社を辞めたんです」就職からわずか2年程の昭和22年で独立した米田氏は、新世界界隈の映画館を回りながら、次第に名古屋、岐阜、四国の映画館からも注文をもらうようになる。「ブローカーと思われるのが嫌だったから、自分のところで作って納品するメーカーという形でやっていたんです」ちょうど、劇場が出来たのも米田氏が独立された時を同じくして昭和22年6月。697席を有する東映の封切館“新世界日劇”、松竹・新東宝・東映を上映する292席を有する“光映座”、そして、321席の洋画専門館“日劇会館”だ。


ここから、いよいよ米田氏が本格的に映画に携わる人生が始まったのだ。「映写機が売れたのは日本映画が盛り上がる少し前…どんどん映画館が建つ時分ですわ。一度、映画館が建ったら後は修理とかメンテナンスだけでしょう?正直、いくら手間賃もろうたって、それだけでは食うて行かれへんのです。こんな事やってたらアカンなぁ思うて…」そこで米田氏が目を付けたのが映写技師だった。「あちこちの劇場で映写機のメンテナンスをしていたら、映写技師と自然に顔馴染みになったんです。その頃は映写技師が足りない時代でしたから、これは丁度いいなと思って、映写技師を斡旋・派遣する仕事を始めたんです」こうして映写技師の派遣事業を始めたのは昭和28年頃。最盛期には23人もの映写技師を抱えていたそうだ。「その頃の映写技師言うたら映画館の心臓やったからね。映画館主も映写技師に気を使うから嫌うんですよ。それならばウチに委託した方が気が楽というワケです(笑)」当時は、2台の映写機でフィルムの掛け替えを行っていたため、1館に交代要員も入れて4、5人もの映写技師が必要だったところを米田氏は、同じエリアの映画館を複数の映写技師が掛け持ちすることで効率的に動かしていた。「人が足りないところに助っ人を頼んだりして、どないでも出来たんですよ。私も人が足りん時は映しましたからね。その煩わしさがないだけでも館主さんは助かったって言ってましたよ」大阪万博の時は、それぞれのパビリオンで映像を投影する催しを計画していたため、映写技師が不足してしまい、米田氏が人員の手配を請負ったという。

続けて米田氏は関西で殆ど行われていなかったオールナイト興行に目を付けた。「当時、関西で唯一“梅田日活”がオールナイトをやっていて、学生さんが多く観に来ていたんですよ」その光景を見て、これは流行るのでは?と直感した米田氏は早速、出入りしていた映画館に「深夜に映写機を動かす映写技師を派遣するから、やってみないか?」と話を持ちかけたところ、この興行が当たった。「しばらくは深夜のみ派遣してましたけど、いくつかの映画館からは、夜だけじゃなく昼も面倒見てくれないか?と言われて、京都の“八千代館”なんかは映写だけではなく映画館全般を任されていた時期もあったんですよ。当時、ゴルフ仲間だった東映の常務さんからからも映画館に口利きしてもらってね」もし、東映の封切館で専属の映写技師がオールナイトをすると労働組合があるため高くついてしまう。「その方が安う上がるなぁ…って、言うてましたわ(笑)。それで東映もウチに頼むようになったんです」当時、大阪でオールナイトやっていた映画館には殆ど米田氏の映写技師が入っていたというほどだ。「映画に人が入っていた時代ですわ…」と、当時を振り返る米田氏。「儲かっている時はお付き合いするけど、いつまでもそういうワケには行きませんわな。まず映写機が全自動になってフィルムの掛け替えが必要なくなって、それからですわ…映写技師の仕事が少しずつ減ってきたのは」昭和40年代に入ると日本映画の斜陽化が囁かれるほど入場者が減少。映画館を閉めてボーリング場やパチンコ店に鞍替えすることろも多くなってきた。





「そのうち、経営者が高齢や病気になられて映画館をやむなく閉める…という話もアチコチから出てきたんです」最盛期には20館以上もあった契約館も少しずつ姿を消していた矢先、昭和も終わりが近づいていた頃に『尼崎パレス』のオーナーから映画館を引き継いでもらえないか?という話が持ちかけられる。「そこで初めて映画館をやり出したので、かなり最近の事なんです。映画館の景気が良い時なら、皆喜んで引き継いだでしょうけど、もうボツボツええ加減やなぁという時分だったからやる人がおらんようになってたんですよ」

映画館を維持するのも大変な時代に敢えてそうした決断を米田氏がされた背景には、それまで抱えてきた映写技師の救済という理由があった。「映写技師をようけい雇ってましたやろ?どんどん映画館が閉館されていくもんだから、彼等の行く先が無くなってしまうんです。ずっと映写技師ひと筋でやって来られた人間は、他の仕事なんて出来ないですよ。その人たちのためにもウチで映画館をやって行くしかないな…と思ってね」しばらくは各劇場に交渉してしばらくは続けてもらえたものの10年くらい前には映写技師の派遣は全て無くなり、現在は映画館事業に力を注ぐ日が続いている。


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