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ある日、東伊豆にある小さな映画館の受付に「ライオンキングを一枚下さい」と年配のご婦人が来られた。その映画館ではライオンキング≠ヘ上映されておらず「ライオンキングはやっていないのですが、犬の映画はどうですか?」と雑種犬と旅をする女の子のインディーズ映画ウェンディ&ルーシー≠オススメすると、そのままチケットを購入して入場された。それでも満足されたのか…上映が終わると「また来ます」と言って帰られたという。「上映中は大丈夫だったかな?と不安だったのでホッとしました」と語ってくれたのは、伊東市で37年ぶりに出来た映画館『金星シネマ』の支配人・梅澤舞佳さんだ。もしかするとそのご婦人は映画館に行けばテレビで宣伝している映画を観られると思ったのだろうか?映画は予めスケジュールを調べて出かけるのが当たり前になっている今の世の中で、こうしたやり取りに懐かしさと不思議な感覚を覚える。 『金星シネマ』があるのは伊豆急行線伊東駅からバスで約30分程の国道沿い。隣は調剤薬局、周辺にはスーパーやファミレスが立ち並ぶ利便性の高いエリアだ。東京出身の梅澤さんがこの地に移り住んだのは2022年のこと。映画美学校を卒業して映画製作会社に勤めていたが、ハードワークの現場で体調を崩してしまい、東京を離れて新しく生活を始められる静かな場所を探す中で風光明媚な伊東市に辿り着いた。「今まで伊東には来たこともなく縁もゆかりもない土地でしたが、住まいにはとても良い物件があったので引っ越して来ました」梅澤さんが初めて伊東に来た時の印象は、静かなところと思ったら意外と賑やかというもの。確かに伊豆半島の東側に位置する伊東は関東からの観光客も多く、豊かな自然に囲まれながらも田舎というわけでもない。マリンスポーツも盛んなので街を訪れる人も若者から年配まで幅広く「何かチャレンジするにはちょうどいい場所だと思いました」と当時の思いを振り返る。 |
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移住してしばらくはスローライフを満喫していた梅澤さんだったが、一年を過ぎた頃に市から起業支援の助成金が出ると教えてもらう。喫茶店か何かを始めようかな?と思っていたある日、地元のテレビで男の子が、伊東には遊ぶ場所が無い…と答えているのを偶然目にした。その言葉を聞いて、自分にも何か出来たらと思った梅沢さんは「今まで経験してきた映画に基づいた何かをやってみようと考えたのです」最初は、会議室くらいの場所に少人数で床に座って映画を観る規模の上映会を考えたのが始まりだった。そこから映画の上映が可能な場所を駅前にある商店街で探し始めたが、なかなか適当な物件が見つからない。そんな時、耳鼻科と眼科のクリニックだったこの物件に出会う。玄関を入ると中央には受付と待合室があり、左右が耳鼻科と眼科の診察室に分かれている構造に「ここならミニシアターが出来るかも!と内見したその場で即決しました」 中央の待合室をロビー、耳鼻科の診察室をカフェ、眼科の診察室をシアターに改装。「改装するにあたっては業者さんを入れず、父と映画学校の同級生に応援してもらって殆ど自前で作ったんです」だからシアター以外はクリニックのレイアウトもそのまま。外壁の塗装や壁紙の貼り替え、シアター内の防音壁まで全て手作業で行った。ほぼクリニック時代のままで、入口で靴を脱いでスリッパに履き替える仕様も敢えて変更しなかった。「靴を脱いで上がってもらうのもそのまま採用したのは、私自身も窮屈な感じがする場所が好きじゃなくて、場内が小さい分ゆったり映画観賞が出来る場所にしたいと思い、靴を脱いでもらうようにしたら、お客様からの評判がとても良いんです」ユニークなのはロビーとシアターの間にホワイエを設けた点だ。元々診療室前にあった待合室を上映までの待ち時間を過ごせるよう映画パンフレットや関連資料を置いて待機スペースにした。 こうして『金星シネマ』は2024年9月14日に湯を沸かすほどの熱い愛∞幸せなひとりぼっち≠ネど4作品をこけら落としでオープンを迎えた。久しぶりの映画館に市民の反応はまさに「待ってました!」という感じで多くのお客様が来場された。「嬉しかったのは、おめかしして、おばあちゃんが来て下さったことです」伊豆半島には映画館が無いため1時間半を掛けて三島まで行かなくてはならない。ましてやお年寄りにはサブスクやシネコンで映画を観るにはハードルが高過ぎる。それだけに身近な場所に誰もが映画を楽しめる映画館が復活したことは喜ばしかったのだろう。上映作品の選定に関しては静岡の『シネギャラリー』と浜松の『シネマイーラ』の館長から助言をもらった。「個人経営の小さな映画館なので、新作をやらせてもらえないと思っていたのですが、新作をやらないと人が入らない…と教えていただいて、配給会社さんに繋いでもらったんです」そこでオープニング作品に新作のありふれた教室≠ェ加わった。 |
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「東京と異なりミニシアター文化が根付いていない地方の街なので、映画館の色を出し過ぎないよう広い視野で作品を選ぶようにしています」梅澤さんは、まずは配給システムを理解するため、配給会社に片っ端から電話を掛けて質問をされた。「配給会社の皆さんは上映館が増えることを歓迎してくれて、初めて電話する私にも親切に教えて下さいました」オープニング作品は難しいアート系ではなく大衆性のある作品に視野を広げた。「ラインナップの方向性は今でも変わっていません」と言われる通り、今までお客様に評判の良かった作品はアカデミー賞を獲得したグリーンブック≠竦・枝裕和監督の歩いても歩いても≠ネど心温まる人間ドラマだった。オープン当時は料金を普通の映画館よりも安く設定していたが、その料金では他館との兼ね合いで新作のロードショー公開が出来ないことが判明(不公平になってしまうため二番館扱いになってしまうのだ)。現在は新作を観てもらえるよう料金は他館と足並みをそろえた。「会員システムはオープンから1年は、一般・シニア共に2000円でやっておりましたが、1周年のタイミングで値上げをいたしまして、現在は年会費が一般3600円、シニア(60歳以上)2800円、高校生まで1500円でございます」 映画館の開館時間は水曜日から日曜日の午前9時半から。映画の時間に合わせて近隣に住む人たちが集まってくる。入口で靴からスリッパに履き替えて受付へ向かう。すっかり顔見知りとなった常連さんが会員証を提示して当日券を購入する。そんな来場者が手に取って持ち帰るのが、個性的な表紙のデザインが目を引く劇場オリジナルのフリーペーパーだ(ちなみに広告系のお仕事をされているご主人のお姉様が制作を手掛けている)。B5サイズ・12ページの冊子には上映作品の解説とスケジュールに加え、劇場スタッフによる映画の見どころが掲載されている。ロビーでは近所の洋菓子店「PERi」のドーナツやパウンドケーキなどのスイーツを販売。場内の全座席にはサイドテーブルが付いているのでドリンクとスイーツを楽しみながら映画観賞が可能だ。上映機材や音響などの場内設備は、鵠沼海岸にあるミニシアター『シネコヤ』の館長さんとスタッフさんからアドバイスをいただいたそうだ。「ちょうど規模が同じくらいなので思い切って伺うと、予算内で収まる組み合わせを親切に教えていただきました」カフェでは観賞後にゆっくりと映画の話が出来る空間となっている。「実際に別の席に座っていた方たちがお茶をしながら映画の感想を語り合う光景をよく目にします」またカフェでは先日行われた一周年記念のイベントやトークショーを開催している。「まだカフェとして本格的に機能はしていないのですが、何でも出来る場所にしたいなと思います」 |
「映画を軸とした遊び場になれば」と述べる梅澤さん。今では多くの人に映画以外の楽しみも提供している。例えば、地元の農家さんによる旬の野菜を直売する特設テントを映画館開館日に合わせて開くと、朝に並べられた野菜も瞬く間に売れてしまう。ちなみに販売される野菜はフリーペーパーで紹介している。また今年の夏からは映画制作に関するあれこれを映画美学校の講師がレクチャーするワークショップを開設。プロのカメラマンと行う撮影体験では、実際に街をカメラ片手に散策して、最後は映画館に戻って撮影した映像を上映する…といった表現としての伝え方を教えてくれた。他にも映画の中に出てくる音がどうやって組み合わさってひとつのシーンが完成するのか?など、ニッチなテーマに子供から大人まで参加者は興味津々で聞き入った。 オープンから1年が経ち、地域の人たちの声を取り入れてきた。先日も「放課後等デイサービス 伊豆高原ベース」という障害を持った子供たちを支援する学童施設の貸切上映会を行い映画体験の場を提供したり、お年寄りから寄せられた「車が無いのでなかなか行けない」という声から、予約をすれば伊豆急行線川奈駅から車で送迎(2〜6名)するサービスも開始した。伊東に移り住んで4年…梅澤さんにとってここは「新しいことをチャレンジしがいのある場所」と繰り返す。地元住民だけではなく観光客や移住された人など、それこそ年齢も地域に対する思い入れも千差万別だからこそ面白いことを受け入れてくれる土壌が出来ているのだろう。梅澤さんは常連のご夫婦から掛けてもらった「この場所が出来てすごく嬉しい。だから長く続けてもらいたい」という言葉を守り続けたいと話す。「特別な場所じゃなくてもイイんです。もっと気軽に映画を観に来て心に残る場所になれれば…と思っています」(取材:2025年10月) |
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【座席】 17席 【音響】Blu-ray上映 【住所】静岡県伊東市吉田573-1 【電話】0557-28-0479(送迎予約)
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