現在、百年に一度の大工事が進行している渋谷駅周辺。長年渋谷のランドマークとして圧倒的な存在感を放ってきた東急百貨店東横店も5年の歳月をかけて解体工事が完了した。遡ること2023年…かねてから計画されていた道玄坂二丁目にある東急百貨店本店土地の開発が始まり、隣接する『Bunkamura』も一部施設を除き長期休館することとなり『Bunkamuraル・シネマ』も4月10日より休館に入った。その2ヵ月後の6月16日。駅前の宮益坂下交差点にあった東映の直営館『渋谷TOEI』跡地に『Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下』がオープンした。内装デザインは国内外でさまざまな建築プロジェクトに携わって来た中山英之建築設計事務所が手掛けた。『渋谷TOEI』の基本構造と導線はそのまま、1階の窓口でチケットを購入してエレベーターで各シアターへ向かう。扉が開くと薄灯りのエントランスに劇場のサインが出迎えてくれる。『Bunkamuraル・シネマ』に慣れ親しんだ常連である筆者としては、影をモチーフとしてロビー全体を覆う影色のシャドウカーペットや照明を抑えた空間演出には驚きを隠せなかった。元々、センター街の喧噪から離れた道玄坂で、大人の観客にとってのオアシスとして高品質な作品を送り続けたミニシアターが、人通りの激しい渋谷のど真ん中に出てくると聞いた時、「どんな映画館になるのだろう?」と心配したファンは決して少なくなかったと思う。ただ映画を観るだけが目的ではなく、センター街の喧噪から離れた渋谷の奥座敷にある『Bunkamura』という場所から、人通りの激しい駅前に移ることで、観客がどのような反応を見せるかが全くの未知数だった。「おっしゃる通り、社内でもここに移転するにあたって色々な意見が出ました」と当時を振り返る支配人の岡田重信氏。長年に亘り複合文化施設の中にあるミニシアターというイメージを定着させたところに、一時的とは言え渋谷の中心部にある商業施設への移転に不安要素があったのは理解出来る。



ところが今までの『Bunkamuraル・シネマ』から目先を少し変えることで思わぬ化学反応が表れた。今回の移転を機に全体のイメージは一新されカジュアルな空間に生まれ変わった。エレベーターを降りてロビーに目を向けると、ゆっくり回転するチラシのタワーが照明に浮かび上がる。今や『Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下』のランドマークだ。全体に照明を落とした陰翳(いんえい)空間のところどころにスポットを当ててサインやディスプレイを浮かび上がらせる。逆に光が当たっていない箇所に闇だまりを作ることにより目に見えない奥行きを来館者に想像させる効果を生み出している。そして床に敷いているシャドウカーペットと同じ素材を休憩ベンチやランプシェードにも用いることで世界観を統一した。こうすることで大規模な工事を行わなくても済むように工夫が施されている。言葉を選ばずに言えば…最小限のコストで、渋谷宮下ならではの新しい『Bunkamuraル・シネマ』ブランドを創出してみせたように感じられる。

また、より若い人に向けた作品もより積極的に取り入れるようになった。中でも筆者が注目したのは、移転して3ヵ月後に開催されたワーナー・ブラザース創立100周年記念の企画35ミリで蘇る ワーナーフィルムコレクション≠セった。特集上映は『Bunkamuraル・シネマ』名物であったが、まさかここのスクリーンでクリント・イーストウッドやスティーブ・マックイーンの映画を観る日が来ようとは…。ダーティハリー≠竍ブリット≠ネどワーナーのヒット作15本をフィルム上映したのだ。早々に今までのイメージをいとも簡単に覆した企画だったのでさすがに驚かされた。これほど思い切った企画を実現させたのは、プログラミングプロデューサーとして長年番組編成に務められてきた中村由紀子さんに依るところが大きい。この企画は『Bunkamuraル・シネマ』から35ミリフィルム映写機を持って来たからこそ実現したもので「アナログからデジタルまで」幅広く対応出来ることを劇場の目玉として『Bunkamuraル・シネマ』に来たことがない人たちへの大きなアピールにつながった。


「これまであまりやってこなかった、このような特集上映企画や若い人に向けた上映作品を積極的に取り入れるようになったのは、渋谷駅前という場所柄も大きいです。今後も機会があればフィルム上映も続けて行きたいですね」長年、複合文化施設の中にあるミニシアターとして、アート・演劇・バレエ・オペラ・クラシックなど最高峰の芸術と連動して『Bunkamuraル・シネマ』ならではの作品を提供して来たが「その場所から離れることで作品の選び方にも自由度が増した部分もあります」と岡田氏は述べる。だからといって『Bunkamuraル・シネマ』でオープンからお客様と共に育んできた映画館の本流は変わらない。こけら落としはミュージカル映画特集とマギー・チャン レトロスペクティブ、以降は各映画祭で高い評価を得た作品が続いた。最初は様子を見ていた常連客も安心したのか少しずつ戻ってきた。スタッフの三好由希子さんは作品の幅が広がったことへの手応えを感じているという。2021年末には『Bunkamuraル・シネマ』初の邦画作品として濱口竜介監督の偶然と想像≠フ上映を行った。「特に日本映画はやらない…というこだわりがあったわけではなかったですが、これまで上映の機会がありませんでした」初の邦画興行は大成功を納め、まだコロナも収束していなかった時期にも関わらず、約半年ものロングラン興行となった。そこから配給会社からも従来にはなかった作品のオファーも増え、移転後も濱口竜介監督の新作悪は存在しない≠竡R中瑤子監督のナミビアの砂漠=A団塚唯我監督の長編デビュー作見はらし世代=Aドキュメンタリー作家・佐藤真レトロスペクティブなど日本映画を多く取り上げるようになった。若い世代がより頻繁に足を運んでくれるようになった現状に「私たちは今回移転した渋谷宮下をさまざまな挑戦が出来る場所と捉えており、こんなことをやったらお客様はどう受け止めてくださるだろう?≠ニいうのを試行錯誤する期間と考えています」


『Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下』はオープンから2年あまりが経った。「この期間お客様から色々なご意見をいただきました」という岡田氏。お客様から高い評価を得ている場内に関しては、2014年にリニューアルされた『渋谷TOEI』のままだから観やすさと座り心地は折り紙付。天井が高く客席に高低差があるため前列の頭が邪魔にならなくてイイという声が多い。「確かにBunkamuraル・シネマの場内は段差が少なく観にくかったとご指摘をいただいていました」こうしたハード面はもちろん、新しい客層と上映作品に関して、多くの知見を得ることが出来た。最近もロバート・レッドフォードの追悼として追憶≠ニリバー・ランズ・スルー・イット≠フ4K上映を行い老若男女全世代のお客様が来場した。今を生きるお客様は何を求めているのか?「今後につながることを考えなくてはならないですね」と岡田氏は続ける。「渋谷宮下で行ったチャレンジの中で、イイものをBunkamuraル・シネマに持っていく。だから今回の休館はある意味チャンスだったと言えるのかも知れません」ここで獲得した新しいお客様を連れ立って『Bunkamura』に帰った時、『Bunkamuraル・シネマ』がどのように変わるのかが楽しみだ。(取材:2025年9月)

【座席】 『7F』268席/『9F』187席 【音響】SRD・7.1ch
【住所】東京都渋谷区渋谷1-24-12 渋谷東映プラザ 7F・9F
    (1Fチケットカウンター)
【電話】050-6875-5280

『Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下』のロビーには『Bunkamura』にあった『ドゥ マゴ パリ』が気軽に利用しやすいスタイルで営業を再開している。パリにある老舗カフェの伝統を継承した『ドゥ マゴ パリ』は映画の待ち時間や観賞しながら手軽に楽しめる小さなスタンドカフェ『ドゥ マゴ パリ プチカフェ』としてオープン。人気のスイーツ「タルトタタン」は小さなサイズにリニューアルされて500円(税込)というお手頃価格で提供。他にも季節のメニューや上映作品のイメージに合わせたオリジナルメニューなど全て場内に持ち込みが可能だ。シネマ部門と飲食部門が同じチームなので試写で観た作品のイメージを膨らませて開発しているメニューはどれも絶品。それもそのはず『ドゥ マゴ パリ』で働いていたスタッフが作っているので、毎回趣向の凝ったドリンクを提供していると自負する。ちなみに今夏上映のパルテノペ ナポリの宝石≠ニタイアップしたオリジナルドリンクは味も彩りも映画のイメージ通りの逸品だった。そしてもうひとつロビーで目を引くのは、様々な書籍が並ぶブックストアのコーナーだ。アートショップ『NADiff』によって特別なキュレーションがなされたもので、上映作品の関連書籍を中心としたオススメを定期的に入れ替えて販売している。次回作が決まったら劇場スタッフと『NADiff』で選書を行い、書籍は棚だけではなくベンチに設けたスペースにディスプレイされているので待ち時間に手を伸ばして読まれる人も多い。「勿論、映画を観てもらうのがメインですが映画の待ち時間に本やカフェなど映画館全体を楽んでもらえる作りにしました」


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