東急東横線の代官山駅を降りて代官山通りを猿楽町に向かって、個性溢れる小さなお店が軒を連ねる200メートルほどの坂を下って行く。人気のエリアにも関わらず、人通りが多くない通りはいつ訪れてもホッとさせられる。何より渋谷から15分ほど歩いただけで、あの喧騒を抜けてゆっくり過ごせるのだから、ゆとりがあれば足を延ばすべきだ。そんな代官山を「東京のなかで一番パリの街に似ている」という人がいる。かつて、幼少期をパリのバスティーユで過ごした五十嵐壮太郎氏だ。自宅があるアパルトマンの1階には小さな映画館(何とも羨ましいシチュエーションだ)があり、お父様によく連れて行ってもらったそうだ。その映画館に集まる人たちは言葉も文化も異なる様々な国籍で、休憩時間にはそんなお客さん同士がおしゃべりを楽しむ憩いの場だったという。そのおかげで豊かな感性が磨かれた五十嵐氏。帰国してからも「そんな映画館を作りたい」と抱き続けた思いはやがて現実となった。それが、2021年6月1日にオープンした『シアターギルド代官山』である。ここには通常の映画館にあるカップホルダー付きの座席も無ければ、ロビーと場内を隔てる防音壁も存在しない。ガラス扉の向こうに掛かる白いカーテンをくぐると、ホワイエからスクリーンまでフルオープンの空間が広がる。そう、そもそもこの映画館にはロビーとか場内という概念は存在しないのだ。

私たちが行くシネコンやミニシアターと決定的に異なるのは、スピーカーが無いというところだ。それがヘッドフォンシステムで映画の世界に没入する『サイレントシアター』だ。システムの開発・運用を行なうのは五十嵐氏が代表を務める(株)THEATER GUILD。会社が設立されたのは『サイレントシアター』の技術特許が取れたオープンから3年前に遡る。映画館を訪れた際、まず入口のカウンターで、予めインターネットで購入しておいたチケットと一緒にヘッドフォンを受け取る。フローリングの館内に置かれた大小様々な椅子に腰を下ろしてみて好みの場所を確保する。全席自由なので初めての人は余裕を持って入場して、自分にあった椅子を色々試してみることをお勧めする。正面の壁に設置されたスクリーンは、サイズ3m×5mの特注4K LEDスクリーンなので、どの場所からも観やすく配置されている。いよいよ座る場所が決まったらヘッドフォンを装着して操作方法を確認。ボリュームのコントローラーはヘッドフォンの耳当て部分にあるので、映画を観ながら自分の好みの音量に調節することが出来る。ただし上映が始まったら暗い中、手探りで音量を調整しなくてはならないので明るい内に確認するのが重要なポイントだ。準備が出来たらカウンターでドリンクを購入して、中央にある大きな一枚板のメインテーブルで待ち時間を過ごすのも良い。


想定される模倣リスクなどの確認から始めて、特許が取れてからようやく着手に至ったため、全ての準備が揃ったのはコロナが猛威を振るっていた時期。当初の計画から変更を余儀なくされたものの『サイレントシアター』は世間の注目を大きく集めた。「ここは多くの企業にシステムを認知してもらうアンテナショップの役目を担っているので、ここを拠点に『サイレントシアター』を増やしていきたい」と展望を述べる。またコロナ禍という逆境でのオープンは、意外な副産物をもたらした。劇場の閉鎖的な空間が問題視されていた中、ヘッドフォンという特性を活かして入口や窓を開けて上映したのだ。「元々アパレルショップを居抜きで借りて防音工事をすることなく改装しました。だから壁面の換気窓を全開にして上映できたのです。まさかこういう形で効果を実証するとは想像していませんでした」

五十嵐氏にとって、この事業は起業家としては二つ目のチャレンジで、最初は映画のチケットシステムドリパス≠開発して成功に導いた。ドリパス≠ニはインターネット上で5万作品を超える名作映画のデータベースからリクエストを行い、上位にランキングされた候補作からチケット販売が開始され、定員に達すれば映画館での上映が実現するというユーザー参加型の販売システムだ。作品選定を劇場に委ねるのではなく、観たい作品は自分たちの声で実現するという応援スタイルで多くのシネコンで導入。現在の順位や投票数が表示されるのでゲーム感覚で推移を見守ることが出来るのが楽しい。「これを作った時に新しい映画館の作り方に興味を持ち始めたのです」そこで五十嵐氏は映画館の基本構造が実は昔から何も変わっていないという点に着目して次のチャレンジへと進む。


2013年にドリパス≠譲渡した五十嵐氏は、それからヘッドフォンの開発と映画館の設立に向けて動き始めた。「周りを見渡したら世の中にはそういう映画館が無かったので、開発から始めました」まず自分たちが設計したヘッドフォンと送信機を図面通りに作ってくれる工場探しから始めた。開発から設計、特許の取得まで掛かった期間は約2年を費やした。コロナという想定外の事態が起きたものの映画館の立ち上げに漕ぎつけた。現在もヘッドフォンのバージョンアップは進行しており、取材の日も新しい試作品の打ち合わせをされていた。場内のデザインは誰もが自由にくつろげるようリビングルームをコンセプトに設計されており、都会の喧騒から少し離れた隠れた家的なイメージだ。ヘッドフォンを装着したまま館内を自由に移動が可能なのでバーカウンターでドリンクを購入出来る。その手軽さから「他の劇場よりもドリンクをよく購入している…とお客様からお声をいただいています」と支配人の新村彰啓氏は述べる。

上映作品についてはジャンルにこだわっておらず、音楽映画は勿論のこと、人間ドラマからアクションやホラーなど幅広い。現在のところは多くの人たちに、ヘッドフォンの良さを体感して広く認知してもらうのが重要であるため、敢えて作品を選んではいない。それは逆に言えば、どんな作品を持ってきても没入感を体感出来る自信があるからだ。むしろ色々な作品を聴き比べて、良さを知ってもらうことが大事だという。事実、一度このヘッドフォンを体験してもらえば、音がストレートに頭の中に入って来て、映画の中に没入するという表現の意味が理解出来るはずだ。オープニング上映作品では、ファンタジーからドキュメンタリーなど、様々な音の聴かせ方を表現した映画がラインナップされていた。最近上映された音楽ドキュメンタリーすばらしき映画音楽たち≠フようなオーケストラを聴かせる映画こそ威力を発揮するものだと思っていたら、むしろア・ゴースト・ストーリー≠フような風や水の音といった微かな環境音にこそ、ヘッドフォンを通すことで音に豊かな表情が加えられていたのだ。実際、お客様の中は他館で観た映画をここで観直すという方も多く「他館では聞こえなかった音が聞こえる」と高い評価を得ている。「基本的にはどのジャンルでも合いますよ。音楽映画は勿論ですが、ヘッドフォン映えする映画はたくさんあると思うので、これからもヘッドフォンと作品の相性について追求を続けたいと思います」


百年以上変わっていなかった映画館の基本構造にヘッドフォンを装着させることで映画に自由を与えた『サイレントシアター』システム。『シアターギルド代官山』では映画に限らず音楽ライブなど様々なイベントを繰り出してきた。「ここは色々な実験をする場にしたいと思っています。映画の上映だけではなく、夜にはミュージックバーとして音楽とお酒を楽しむ場になっているんですよ」最近もインターネットでの活動を中心としたアーティストのライブビューイングを行ったり、チェロのライブも開催している。また劇場だけに留めず宮下公演のイベントで上映会を開催。「このシステムならば屋外上映でも周辺の音が入って来ないですし、逆にスピーカーからの音響で周辺に迷惑をかけることはありません。音を出せない環境にある場所でイベントを計画されている皆さんには是非お勧めしたいです」スクリーンとプロジェクターさえあれば場所と時間を選ばないのがこのシステムが誇る唯一無二の優れたところなのだ。

最近は映画館の無かった街で、廃校舎やカフェを改装してオルタナティブスペースで映画を上映する試みが増えてきたが、低予算で上映施設を運営するには正に『サイレントシアター』システムは打って付けかも知れない。「ちょっとした空きスペースがあれば、大規模な防音工事をする必要がありません。この送信機は互換性が高いので、極端に言えばご家庭のテレビやパソコンなどでも繋げることが出来るので、どこでも映画館が作れちゃうんです」アイデアひとつで映画を上映する場所を広げることが出来るのだ。今まで音を出すことをタブーとされていた公共図書館でも本に囲まれた中で映画を観る…なんて最高ではないか。オープニング作品にワイズマンのドキュメンタリーニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス≠ェあったが、図書館とのコラボが実現出来たらそれこそ面白いと思う。

五十嵐氏は『シアターギルド』を単なる映画館ではなく様々なチャレンジの場にしていきたいと語る。「スクリーンに映す映像は映画だけではなく、例えばスポーツや音楽のライブ中継やeスポーツなど、それに付帯するイベントを仕掛けることで、普段、映画館に来ない人にも提供できる新しい体験を常に考えています」2023年12月には下北沢にフランチャイズ2号館となる『シアターギルド下北沢』をオープン。更に年内に数館増やしていきたいと準備を進めているという。これからはもっと気軽に古着屋や雑貨屋を訪れるように映画館を感じられる時代になるのかも知れないと取材を通じて思った。将来的にはアジア圏の進出も考えており、そのグランドデザインとなるのが1号館の『シアターギルド代官山』なのだ。(取材:2025年3月)


【座席】 30席 【住所】東京都渋谷区猿楽町11-6 サンローゼ代官山 103区画

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