都心から郊外電車に乗って1時間ほどの場所にある青梅市は東京西部に位置する。丘陵地に挟まれ、中心を多摩川が流れる…自然と古い街並みがギュッと収まった箱庭のような街だ。江戸時代より織物産業が盛んな土地で昭和初期の最盛期には国内でトップクラスの生産量を誇り、市内には700軒もの織屋根(はたや)があった。駅から歩いて10分程の場所には国の有形文化財に登録された青梅織物工業協同組合の建物群が現在も当時の姿を残している。もうひとつ青梅と言えば思い浮かぶのは、町おこしの一環で市内各所に設置された懐かしい映画の絵看板だ。青梅駅の地下通路から商店街の軒先に至るまで街は映画に溢れている。かつて織物産業が栄えていた頃には市内にも3館の映画館があり、通りはいつも多くの人で賑わっていた。やがて映画の斜陽化と共に平成に入る前には映画館は全て閉館してしまう。それから50年以上もの間、映画館が無い街だった青梅にミニシアターが復活した。青梅織物工業協同組合の敷地内にある旧都立繊維試験場だった建物をリノベーションして、2021年6月4日にオープンした『シネマネコ』である。

立川駅から青梅線に乗り換えてしばらく走ると車窓から見える景色が変わってくる。ビル群が少なくなり地元で暮らす人たちの生活が垣間見える。映画館の最寄り駅である東青梅駅で降りた。青梅駅とは異なり駅前はさほど栄えていない。こんな小さな駅に映画館があるのだろうか?と不安になるのを見透かされたのか、駅前にはちゃんと映画館までの案内板が立っている。安心して西に向かって歩く。都立高校の横にある路地を抜けてすぐ左に曲がると道は緩やかなカーブを描く。駅からの程よい距離感と都会の喧騒から遠く離れた雰囲気の通りは、初めてきた場所なのに何故か懐かしさを感じる。『シネマネコ』は、そんな通り沿いにある。木々の中に溶け込んだ水色の壁面が印象的な建物で、周囲を春には満開の桜や木蓮の花、初夏には紫陽花など季節の花が取り囲む。館名にネコが入っているのは、織物産業が盛んだった頃は養蚕も行われており、蚕をネズミから守るために猫が重宝されていたから。青梅は猫の街でもあったのだ。


代表の菊池康弘氏は、市内に3店舗を展開する「炭火やきとり 火の鳥」のオーナーで映画館の経営は初めて。小学生の頃から映画が好きで19歳で俳優の道を歩む。「その頃は結婚して子供がいましたが、それを理由に夢を諦めたくなかったし、子供には夢を追っている姿を見せたかったのです」と思いを語ってくれた。蜷川幸雄が主催する劇団のオーディションに合格してからしばらく役者として舞台に立ち続けたが、10年を目前にキッパリ俳優稼業を辞めてしまう。「20代の頃は自分のやりたい事を第一に考えていたけど、舞台に上がってもお客さんから求められている感覚がしなかった」自分のやりたい事と現実にズレを感じていた菊池氏は地元に戻り飲食店を始めた。「今度は自分が向いている事をやってみようと思ったんです。そうしたら…地元の皆さんが応援してくれて、自分のやっている事が求められていると実感出来ました」この俳優時代と飲食店の経験が映画館を始めるにあたって大いに生きた。

映画館をやろうと思ったのは、お店の常連さんたちの会話だった。「僕は青梅が地元なのですが、生まれた時にはもう映画館はありませんでした。でもお店に来る常連さんたちが、昔は青梅にも映画館があってこの辺りじゃ一番の映画の街だった。青梅でまた映画を観たいなぁ…と、いつも話をされていたんです」そうやって盛り上がる常連さんの様子を見て発したひと言が全ての始まりとなった。「だったら僕が映画館を作りますよ」地元に戻って事業を始めて順調に店舗数を増やしてきた菊池氏だが、兼ねてより青梅にはエンタメが無いという現状に対してある思いを抱いていた。


「青梅は自然豊かで環境は良いのですが、娯楽が少ないので若者がどうしても都心に行ってしまう。食事や遊びを全て都内の職場近くで済ませてしまうので、青梅に帰宅して何もする事が無い。だから、そういう場所を作りたかったのです」都内には当たり前のようにあるモノを青梅にも作って地域を盛り上げて行きたい…その先にある答えが映画館の復活だった。そう宣言したものの映画館の作り方どころか働いた経験も無い。だからと言って決してハッタリで出た言葉ではなかった。菊池氏はすぐには行動に移さず、まずは現業の飲食事業に力を入れて、地域の信用を得られる事を第一に考えた。「ちゃんと収益を出して地域の金融機関に信用してもらい、経営母体をしっかりさせれば持続的に映画館を運営していけると思ったのです」つまり本業の体力が付くタイミングを見計らっていたのだ。宣言から6年後…そろそろ始動しようと考えていた時に、商工会議所で知り合ったタウンマネージャーから現在の場所を紹介してもらう。「実はこんな映画館にしたいというコンセプトが無いままノープランで始めたんです。物件を探しながら、何が足りないとか、これが問題だとか…途中で修正しながら進めました。考え過ぎるとリスクしか浮かんでこない。でも大義さえあれば後から結果が付いてくると信じていました」


場所の目処が立つと、勢力的に各地のミニシアターを訪ねリサーチを行った。お店をやりながら、よくぞ短期間で関東圏から東北近郊まで足を運んだものだと正直驚かされた。その想いが通じて、どこの館長も快く様々なアドバイスや資料を提供してくれた。「江戸時代から続く元酒造だった建物を映画館に改築した”深谷シネマ”さんは図面を提供してくれたり、補助金の申請方法も教えてもらいました。他にも”高崎シネマテーク”さんはカフェの収益が劇場を維持していく上で重要だと助言をいただいて、基本設計と運営方法の参考にさせてもらいました」その噂が巡り巡ったのか思いもよらぬ声が新潟から届いた。それは、閉館された”十日町シネマパラダイス”から場内で使用していたキネット社の椅子を無料でお譲りします…というありがたい提案だった。兼ねてよりキネット社製の椅子にしたいと思っていた菊池氏はすぐにトラックを手配して自分たちの手で運んだ。「ノープランの僕ですが、やろうと思う事を常日頃から言い続けていれば、誰かの耳に届くのだと思いました」

2019年の年末に申請していた補助金の審査も順調に進み、経済産業省から採択通知が届いた。ところが…。いよいよ映画館立ち上げに向けて本格始動しようという矢先に思わぬ事態が全世界を襲った。2020年4月に、コロナの蔓延による緊急事態宣言が東京で初めて発動されたのだ。「ちょうど、その通知がきたのが、4月だったんですよ。コロナ前から動いていたプロジェクトですが、正直このまま進んで良いものか迷いました。総工費の3分の2が降りる申請が通ったもののコロナが猛威を振るっていた頃ですからね。経産省の担当者からも世の中の事情なだけに、辞退しますか?と聞かれました」当時は先が見通せないコロナを理由に公布を辞退するところが多かったから無理もない。菊池氏は施主として施工業者側のリスクも考えなくてはならなかった。「関係するスタッフや業者さんを交えて、やるかやらないか…を何度も協議しました。そこで皆が、最後は菊池さんが決めて下さいと言ってくれて決断しました」と当時を振り返る。「初めての映画館で皆が試行錯誤しながら進めていたプロジェクトだったので、その気持ちは変わらなかった」もし今回辞退したら、先の状況が読めないため、再申請しても同じように受理される保障はない。こんなチャンスは二度と無いから予定通り進めたい…と思いを伝えると皆は一様に賛同してくれたのである。



着工から1年間…コロナが一進一退を繰り返す中、『シネマネコ』はオープンに漕ぎ着けた。期間中、菊地氏は館内のデザインに関して建築家とデザイナーに全面的にお任せしたという。「僕からはあまり口出しはしませんでした。全て自由にやってもらったおかげで、地元の人たちが求めていた場所が出来たと思います」オープン当時はまだ時短営業や入場制限などの規制があったため、予定より1ヵ月遅れたものの、初日には楽しみにされていた多くの人が来場された。お客様は地元に住むご年配の方がメインでリピーターも多い。現在は会員も1200人を超えており、わざわざ近県から電車を乗り継いで訪れる常連さんもいる。夏休みや春休みには子供を連れた家族の姿も増えてきた。このように時間を掛けてでも映画館に来る理由は、映画を観るだけに留まらず、この場所に漂う独自の空気感や雰囲気を求めているからだ。そして『シネマネコ』には、映画を観終わって現実の世界に戻るまでの時間を愉しめる空間があるのだ。

扉を開けると目の前にチケット窓口を兼ねた受付がある。オンラインでもチケットは購入できるが、年配のお客様が多いコチラでは対面での販売が喜ばれているらしい。戦前の木造建築であるため平屋だが天井が高く、見上げると剥き出しの梁が当時のまま残っている。木の温もりを感じるロビーは天井まである大きなガラス窓から柔らかな自然光が注がれる。ちなみにロビーで販売されているオリジナルグッズ(オンラインでも購入可能)に描かれているキャラクターは菊池氏が飼われている猫がモデルだ。奥にあるカフェは5つのテーブル席とカウンター席が設置されており、大きな窓の外から射し込む木漏れ陽がゆらゆらとテーブルの天板に映る。その光の動きを眺めているだけで待ち時間があっという間に過ぎてしまう。片側の壁面は本棚となっており映画関連の書籍や猫関連の書籍コーナーもある。軽食からスイーツまでメニューが充実しているので観賞前後に食事が取れるのが嬉しい。とりわけ地元のパン屋さんと提携した猫形のフレンチトースト(アイスのトッピングがお勧め)は絶品だ。勿論、映画を観ないお客様も大歓迎で、カフェだけを利用される方も多く、週末になると満席になることもあるという。


上映作品は基本的に菊池氏が選定しているが、ロビーに設置しているリクエストボックスに寄せられたお客様からの要望を可能な限り実現するようにしている。そういった意味では劇場のカラーというものは無いかも知れない。時にはスタッフの意見も取り入れる事もある。当初はホラーは掛けない方針だったが、スタッフからの進言で今年の夏に初めてチャレンジされた。「作品の編成は最初に自分が思っていたイメージと差がありました。ようやく、入る映画と入らない映画が分かってきました。ウチに来るお客様は映画館で映画を観てきた世代の方なので、特定のジャンルに限定するよりも幅を広げた方が良いみたいです」アニメから重厚な人間ドラマまで上映されるので、ミニシアターというよりも、昔どこの街にもあった二番館・三番館のような老若男女誰もが楽しめる街の映画館…といった方が良いかも知れない。

地域の活性化を図る『シネマネコ』では、コミュニティの場所として様々な催しに力を入れている。例えばカフェを使って地域の団体が映画とコラボした企画を催す事もある。最近では、町の古本屋を舞台としたイタリア映画”丘の上の本屋さん”の公開に合わせて地元読書愛好家の皆さんがオススメの本を紹介する読書会が開催された。また、毎月開催されるトークイベントでは時間をタップリ(何と1時間も!)取って、監督と出演者が徹底的に製作時の裏話を披露してくれるので登壇者もお客さんからも好評だ。菊池氏が次に思い描いているのは、青梅市と一緒に映画祭を開催する事。隣町で開催されていた”あきる野映画祭”が終了してしまった今、また映画祭の開催を望む声も上がってきている。「青梅市を映画の街として広めるためにも実現させたいですね。規模は小さくても地道に大きくしていけたら良いと思います」ここに皆が集まって前の広場に野外スクリーンを立ててワイワイ言いながら映画観賞…なんて想像するだけでワクワクする。(取材:2023年8月)


【座席】 63席 【音響】Dolby surround

【住所】東京都青梅市西分町3-123 青梅織物工業協同組合敷地内 【電話】0428-28-0051

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