かつて北海道と本州を結ぶ北の玄関口として、多くの青函連絡船利用者で賑わっていた青森駅。長い乗り継ぎの時間を潰す乗降客のため、駅を中心に発展していった。ある者は駅前の盛り場で一杯引っ掛けて、またある者は映画を観て過ごした。だからだろうか戦後、この東北の港町には22館もの映画館が犇めき合っていた。駅から歩いて10分ほど…昭和の薫りが今も漂う古川夜店通りを抜けた国道7号線沿いにあるミニシアター『シネマディクト』も、昭和29年に東映の二番館として創業した『奈良屋劇場』が前身だ。館名にある奈良屋は、創業者の谷田猷次郎氏が奈良県出身だったことに由来する。元々、関西で蚊帳問屋を営んでいた猷次郎氏は、映画館経営に関してはズブの素人。ましてや市内でも最後発の映画館となるだけに、設立当時は勝機の見込みが無い大変な幕開けとなった。「映画館をやろうと、突然言い出した僕の爺さんは、同じ世代の人なら誰でも知っている大変な人だったみたいです。蚊帳問屋が上手く行かなくなってきたので、商売替えを考えた時に周りを見回したら、映画館にはすごい人が入っていたので、取りあえず大工さんを呼んで自分で図面書いて、先に建物を作っちゃったんですよ」と語るのは三代目館主の谷田恵一氏だ。

「爺さんは映画館作ってから、さぁ、どこの映画やるべって考えたんです。当然、もう22館も市内に映画館があるものだから、どこの配給会社も相手してくれないわけですよ」そこで関西商人であった猷次郎氏は持ち前の行動力で、卸元がダメなら製造元に行けば何とかなる…と、アポを取らずに東映の東京(大泉)撮影所へ直談判に行ったのだ。普通であれば門前払いとなるところ、当時の撮影所長が偶然にも弘前の旧制高校出身という事で、青森から来た猷次郎氏の話を聞いてくれたのだ。「そこで、爺さんが経緯を話したら、仕方が無いからウチの二番のチャンバラでもやるか?と言ってくれて、人気のあった“笛吹童子”をこけら落としで、東映の二番館としてオープン出来たんです」二番館とは言え、まさに世は東映時代劇の黄金期。連日、千恵蔵や錦之助らスターが出演している映画に多くの観客が押し寄せた。「だけど爺さんがやったのはそこまで。僕の親父に、後は全部お前がやれ!って、丸投げして自分は手を引いちゃったんです」図らずも早々に二代目館主となった谷田美津夫氏は、生涯を映画館に人生を捧げる事となる。恵一氏は子供の頃、盆正月には映画館の前に人がうなっていたのが今でも忘れないという。最盛期は、朝から晩まで観客を場内にどんどん流し込み、裏では臨時で雇った人が飯を食べていたり、そこにヤクザと警察がとぐろ巻いていたそうだ。「お盆の時期は必ず新東宝の怪談映画3本立てをやるんですが、当時、映画館に住んでいたので、夜中に劇場のトイレに懐中電灯持って行くのが怖くてね〜途中、窓から用を足していましたよ」ところが、昭和37年に『奈良屋劇場』は、突然3階から出火した火災で焼失してしまう。


平成9年3月15日、『奈良屋劇場』は地上4階建ての「NARAYAビル」に改築され、3階に2スクリーンを有する『シネマディクト』に生まれ変わった。「親父が急に亡くなって、映画館を併設したビルに建て替える…なんて誰も賛成してくれませんでした。シネコンが進出してきた頃で、関係者ですら今から個人でやる商売じゃない…と」映画館のある地域と無い地域には格の差があると思っていた恵一氏は映画館を続けたかった。そんな時、やめないで欲しいと言ってくれたのが、当時、配給会社の営業で、現在は映画会社トランスフォーマーのプロデューサーを務める叶井俊太郎氏だった。最終的に映画館を続ける決心をしたのは…と、少し考えて次のように続けた。「やっぱり映画だからなんでしょうね…映画の商売ってやっぱり面白いんですよ」

天井はビルの中にある映画館とは思えないほど高く、ワンスロープでも座席はとても観易い。シートや装飾、特に音響はシネコンに引けを取らない、かなり贅沢な作りになっている。「ちょうど音響がデジタルに変わった時期で、DTS、ドルビー、SDDSの中から何を入れるか?…と、設備投資の時代になってきたんです。噂を聞きつけた映写機メーカーの営業が、日本中からワーッとやって来ましたよ」映写機の値段もピンキリあって、車に例えれば、外車もあれば国産もある…国産でもカローラもあればクラウンもある。そうした値段交渉の末に導入した映写機だったが、ここから大変な日々が続く事になる。「結局、音の調整に1年近く掛かっちゃったんですよ。営業中は作業出来ないから映画が終わってからメーカーの人が調整してくれて…機械も出始めのものだから皆が手探りなんですね。こっちも殆ど寝ないで付き合っていたから、10キロくらい痩せました」

「お客が入ったものだから、爺さんが欲たけて、屋根裏を3階の立ち見席に改装したんです。無理矢理、突貫工事したものだから、適当な配線が漏電を起こしたんですよ。当時は木造だったから火の回りもあっという間でした」驚く事に、それから間もなく『奈良屋劇場』は、設立当時と殆ど違わぬ姿で再建された。「設計図なんて同じものでイイから、とにかく早く!と、急かしたそうです」この頃になると、邦画5社全てを上映出来るようになっていた。「そろそろ東映だけでは立ち行かなくなって、親父が頑張って映画会社に掛け合って実現出来たんです。毎週3本立てで、若大将と座頭市を一緒にやったりしてね…おかげで東北で一番入る二番館って言われてましたよ」そのせいで、本社から毎月突き上げを食らっていた他所の映画館から街中の看板やポスターを外されるといった妨害も受けたという。

やがて日本映画も斜陽になると洋画のB級映画やピンク映画を上映するようになってきた。恵一氏が映画館の仕事を手伝うようになったのは、ちょうどその頃だ。「東京の大学に行ってたのですが、親父は卒業したら当然帰って来ると思っていたらしいんです。ボロボロのピンク映画館でしたが、経営も大変な時だったので、こりゃ帰らざるを得ないな…って。まぁ、映画館の介護に帰ったみたいなものです(笑)」ピンク映画をやり始めたのは昭和50年代半ばから。日活がロマンポルノに路線変更して、新東宝や大蔵映画が台頭していた時代だ。コチラではピンク映画と邦画とB級洋画を週替わりで回しており、“宇宙戦艦ヤマト”の翌週にピンク映画を上映するという状況だった。「あの当時はピンク映画にも正月映画がありましたらね。お客さんの入りは一般映画よりも良かったんですよ」


最初はミニシアターではなくUIP配給のロードショー館としてスタート。オープニングは、“ダンテズピーク”と“101”で、お客様の入りも順調な幕開けだった。ところがその年末に想定外の大ヒットを記録した作品が現れる事になる。東宝東和配給の“タイタニック”だ。「担当営業から、あんな長い映画入らないよ…って言われて、4週契約にしたんです。3時間の作品って映画館としては組みにくいんですよね。その後にスピルバーグの“アミスタッド”を入れていたのですが、いざ開けたら大ヒットですよ。困っちゃってね〜。僕も律儀に契約通り4週で打ち切ってプリント返しちゃったんです。そしたら翌日に配給会社から電話が掛かって来て…もしかして切ったろ?日本中がこれだけお客さんが入っているのに何考えているんだ!って、もうカンカンですよ。“タイタニック”を4週で切ったのは、世界でお前だけだ!って(笑)」契約に関しては何かやり方があったらしいが、そんな事もつゆ知らず、それでも3週後に再び“タイタニック”を再開。それでも凄まじい数のお客様が来られたという。

基本的には、UIP側で年間の上映スケジュールを組まれていたが、どうしてもやりたい映画がある時は頼み込んで入れてもらった。「ディカプリオの“ロミオ+ジュリエット”を試写で観た時に、どうしてもこれやりたくて…実は他館に決まっていたんですがウチの方が設備が新しいので回してくれたんです。まだ青森のようなローカルでは、封切りでも二本立てでしたから、その時に併映したのがトム・ハンクス初監督作品の“すべてをあなたに”でした。夜中に繋げて試写したら、これが面白くてね〜何とかスケジュールを組んだのですが、気がついたらこれがローカルの二本立て最後の映画でしたね」こんな感じで、気に入った作品は少しずつ入れてもらって、次第にミニシアター系の作品も多くなってきた。そしてUIPが解散すると同時に本格的ミニシアターとなった。お客様の層も女性や年輩の方がメインとなり、重厚で落ち着いた雰囲気の人間ドラマに人気が集まった。最大のヒット作は若者が詰めかけた“エヴァンゲリヲン新劇場版:破”で、初日は列が階段を通り越して表まで伸びたそうだ。「そういう時に限って、市役所で中心街の人出のカウンターをやっていて…議会から、何で夜店通りだけ人がいるんだ?って言われたらしいです。何でよりによって、全然参考にならない日にやったんだって頭抱えてましたよ(笑)」


ビルの正面にある映写機が『シネマディクト』の目印。「昔、幕間で投影していた広告用のスライド式の映写機なんです。倉庫の端っこに埋まっていたのを捨てるのは勿体ない…と思い、劇場のランドマークにしたんです」エレベーターで3階に上がると、そこはもう映画館のロビー。時間に余裕のある方は、是非、非常階段を覗いて欲しい。1階から3階まで壁一面に、映画のポスターがビッシリと貼ってあるのだ。また恵一氏は、映画を広めるため様々な活動を行っている。映画について観客と語り合う映画教室だったり、FM青森のミリオンレディオで担当している映画コーナーもそのひとつ。他にも定期的に寄席も開いている。「お客さんから落語会をやりませんか?って言われたのがキッカケでした。僕も落語は好きで、注目していた若手落語家がそのお客さんの知り合いだったんです。だったらやろう!という事で、足掛け10年…今じゃ映画よりも人気ですよ(笑)。こうやって色んな事をやっている方が、本来の映画館らしいんじゃないかな」

「映画というのは面倒くさくて我慢するもの」という恵一氏。自由に止めたり飛ばしたり出来るDVDと違い、自由が利かない場内で我慢して観るから感動が生まれるのだ。「観たい映画を探して、やっている映画館を見つけて、時間も調べて、そこに行って、お金を払って暗い中で、2時間ずっと椅子に座っているわけですからね」最初はワケが分からない難解な映画でも、やっと終わって家に帰ってから、あれって意外と良かったんじゃないか?と思った事はないだろうか。「そういうのが映画なんですよ。なのに今は我慢するのが嫌いだから、ゴダールの映画なんかワケが分からないから途中で止めて返しちゃう。それじゃ映画の良さだって伝わらないですよ」かつて青森県内から既存の映画館が一斉に閉館した事態が起こった事があった。郊外に県内初のシネコンが出来たのだ。「以前、八戸にある酒屋の蔵本さんに言われた事があるんです。ちょうど街に映画館が無くなった時期で、その人から、八戸には映画館が無くなっちゃったから、何かもう寂しくて、何か違うんだよ街が…って。そう言われたら、映画館を無くさないよう頑張るしかないよね」(取材:2016年11月)


【座席】 『ルージュ』150席/『ノアール』55席 【音響】 『ルージュ』SRD-EX・DTS・SRD/『ノアール』DTS

【住所】青森県青森市古川1-21-18 【電話】017-722-2068


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