2015年の秋、衝撃的なニュースが飛び込んで来た。『シネマライズ』が翌年1月をもって閉館…それまで一部のシネアストたちによって支持されていたミニシアターに、映像・音楽・ファッションを取り入れた作品を発信し続け、渋谷系サブカル世代の若者を取り込むことに成功した正に新世代の映画館だった。渋谷駅からセンター街を抜けてスペイン坂を上りきったところにある重厚感のある異形の建築物。建築家・北川原温氏がデザインした外観が特長的なRISEビルに『シネマライズ』はある。1986年6月6日、2階の洋画ロードショー館“渋谷ピカデリー”と共に松竹の直営館としてメリル・ストリープ主演の“プレンティ”にて地階にオープン。続くジョディ・フォスター主演の“ホテル・ニューハンプシャー”では19週というロングラン上映を果たし、その年の最多観客数を記録した。

1992年には松竹提携から離れて独自路線を歩み、エミール・クリトリッツァ監督の“アンダーグラウンド”を初上映作品として、閉館した“渋谷ピカデリー”跡で2館目をオープンしたのは10年目を迎えた1996年のこと。当時の渋谷は空前のミニシアターブーム…8館(12スクリーン)が凌ぎを削る激戦区となっていた。そんな中で『シネマライズ』は大ヒットを連発。33週にわたって上映された“トレインスポッティング”は歴代の興行収入記録を塗り替え、“ムトゥ 踊るマハラジャ”はマサラムービーブームを日本中で巻き起こし、音楽ドキュメンタリーは当たらないという定説を打ち破り“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”をヒットに導いた。そして2001年に公開された“アメリ”は36週という異例のロングランを記録する。2004年にはデジタル上映が可能な“ライズX”をオープン。3スクリーン体制となり作品選定の幅を広げ「強烈で刺激的な作品をかける映画館」というイメージを固定化させて名実共にミニシアターの頂点に立った。


改めて過去のラインナップを振り返ってみると、やんちゃな問題児という印象が強い。ミニシアター=アート系というイメージをぶち壊したのも『シネマライズ』であった。「敢えて、掴みどころが無い作品を意識してセレクトしていた。面白そうだから“ムトゥ 踊るマハラジャ”をやったりとか…当時の僕は素人だったから、こういった一筋縄では行かないような作品をよく興行に乗せる事が出来た…と思いますね」と代表の頼光裕氏は当時を振り返る。平成に入ってからの渋谷は、タワーレコードやHMVが出来て、渋谷系と言われる音楽まで出ていた時代。ファッションではDCブランドに身を包んだ若者が集まっていた。「その一方で、人と同じ事はしたくない、人と同じものは観ないというのが流れにあった。だからミニシアターで掛かるような作品が成立した時代でもあったんです」

映画の中にファッションと音楽を融合して、それまでの映画の観方を変えたのも『シネマライズ』だった。バーカウンターのようなショップとサントラ盤の視聴コーナーは従来の映画館とは異なる空間だった。「例えば、美容室が休みの火曜日は美容師さんが多く来場されました。ピーター・グリーナウェイを観なきゃダメだと言って“プロスペローの本”を無理して観に来るとか…そういう風潮がありましたね」その盛り上がりを示す例がある。通常興行で“ラン・ローラ・ラン”とレイトショーで“π”をやっていた時、向かいの“シネクイント”では“バッファロー’66”、“シネセゾン渋谷”では“ロック、ストック&トゥ・スモーキング・バレルズ”をやっていたのだ。「すごい時代ですよね(笑)。ウチの場合は渋谷系と時代のカルチャーとリンクしていたので、あの頃は惚れ惚れするような作品が並んでました。レオス・カラックスとかハーモニー・コリンといった新しい映像作家たちがどんどん出て来ていた。今はこの作品を上映したい!っていうテンションになる新しい若手が出ていない。だから、ひとつの役目を終えたというのはありますね」



2010年6月には“ライズX”と地下の劇場を閉館し、番組編成もパルコ エンタテインメントに業務委託した。その変化にどうしたのだろう?と一抹の不安を感じていた矢先に閉館が発表された。「ウチで映画を観て映画業界に入った人も多いらしく、皆さんから、青春の聖地が無くなるのがショックだったとか、閉館のニュースを聞いて涙が止まりませんでした……という声をたくさんいただきました。今回、具体的に『シネマライズ』が無くなってしまうということで、大騒ぎになってしまいましたが、私的には5年前に地下の劇場を閉めた時の方がもっと重い決断だったんです。だからもう少し早めに終わらせていればもっと良かったかな…ちょっと長く引きずり過ぎたかな?と正直思います。惜しむ言葉をいただける今のうちに閉館を決めたのが良かったのかも知れませんね。このままズルズルやっていたら『シネマライズ』って、まだあったんだっけ?なんて見向きもされなかったかも」と頼氏は笑う

閉館の理由は、単純に一言ではまとめられない。強いて言うならば時代と共に街は変化し続け、その波に逆らう事なく出した結論…と言った方が正しいだろうか。「自社ビルとはいえ適正賃料を設定すると、映画館の経営はなかなか難しい。確かに2スクリーンで大ヒットが連発していた時期は決して悪くはなかったですけど、常にヒットがあるわけでもなく…特に1スクリーンだけだと上映期間を決めるのがビジネス的に非常にしんどくなった。例えば6週間上映しますと約束したらヒットしても止めなくてはならないし、当たらなくても契約期間中は続けなくてはならない。スクリーン数が少ないと映画館の運営は非常に難しい時代になってきました」通りを挟んで向かいにあるパルコの建て替えも大きな要因であった。「遅くとも来年の中頃には建て替えを始めるらしい。そうなると来年の夏以降から約2年半は、白い壁がこの前に出来るわけですからね…よほど目的を持っていないと人は通りませんよ。となると、感傷に浸ってられる場合じゃない」

近年、相次ぐ配給会社の倒産も要因のひとつだ。「日本ではアート系の映画を買っても商売にならないっていうんで、必要以上に作品を買わなくなってしまった時期もあった。ビデオやDVDが売れなくなってしまったのも大きいと思う。今までだったら興行の視点としてはイイなと思った作品でも、配給側では誰も拾わないから供給量は一気に減ってしまった」そのため“フローズンリバー”や“ブンミおじさんの森”(カンヌでパルムドールを獲っているにも関わらずだ)を『シネマライズ』で配給した。「これなんか大した金額じゃないのにどこの配給会社も手を出そうとしない…どこか日本で買ってくれるところはないか?と相談されて、2社くらいに声かけたんですが、こういうドラマは無理だからって…それじゃ仕方がないからウチで配給したんです。ふたを開けてみるとビックリするくらいお客様が入りましたよ」それでは渋谷にある他所のミニシアターはどうかというと、こうした状況が続く中で、番組を埋めるために不本意な作品を上映を余儀なくされ、それによって劇場のテンションも下がり、ここ数年で劇場の数は最盛期の半分にまで減ってしまった


渋谷に劇場が乱立したミニシアターブームを冷静に見ていた頼氏は次のように語る。「最初から無理だと思っていましたよ。あのブームは僕から見たら異様な現象でした。厳選して振るいに掛けた作品だけを上映していたら成立したものの、劇場の数が多くなるから、どこかで無理が出てくる。作品の中には、制作した国で本当に興行していたのか?…って、疑わしい映画も増えてたのも確かです。美術館でやるような映画まで無理にやっていたらそりゃ歪みがきますよ」それでもしばらく入ったのはトレンディに乗っていた人たちがいたから。その熱が冷めてしまった今の時代…「ミニシアターの映画って、人間の赤裸々な部分を見せたりするので、不況で仕事がないとか、将来年金もらえるのか…といった不安を抱えたモチベーションの中で、そんな映画を観たいとは思わなくなってきているんじゃないかな」

最終上映作品は“黄金のアデーレ 名画の帰還”。1月7日の上映終了後に閉館するという。ちなみにサヨナラ興行は一切しない。「最後に“トレインスポッティング”とか“アメリ”を上映しないのか?と聞かれるのですが、あの時トレスポを観た自分と今の自分は違うワケですから、その中の記憶として残ってくれればイイなと…だから、ここで昔の作品を引っ張りだすのは違うと思うので、サヨナラ興行は最初から考えていませんでした。これを言ったらある人にロックンロールだねって言われましたよ(笑)」今ふたたびCINEMA RISEの館名が入ったパンフレットを眺めると、挑戦しているなぁ…と、つくづく思う。カラックスやタランティーノ、フォン・トリアーと初めて出会ったのもココだった。ほの暗い間接照明に照らされるロビー。スタジアム形式の2階席へと続く曲線と直線が交じる階段は無機質の美しさに溢れている。STUDIO VOICEとCutを小脇に抱えて服装を気にしながら通ったのを思い出す。「その時はちゃんと文章を書ける人がいて、もっと映画評を書く人も真剣だった。そんな、皆が盛り上がっていた時代に一緒にいられたから、大変でしたけど本当に楽しかったです。今はただ、ありがとうの一言に尽きますよ」と笑顔で締めくくってくれた頼氏の言葉が胸に沁みた。(取材:2015年11月)


【座席】 303席 【音響】 DTS・SRD

【住所】東京都渋谷区宇田川町13-17ライズビル2F ※2016年1月7日を持ちまして閉館いたしました。

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