古くから本の街として親しまれてきた神保町。大学・専門学校が集中する文学をイメージさせる街。その中心に位置する神保町交差点の一角にあるミニシアターの草分け『岩波ホール』は1968年、多目的ホールとして設立され映画・音楽・演劇・文学の講演会やリサイタルなどが行われていた。1974年2月に総支配人の高野悦子氏と東宝東和の川喜多かしこ氏が「世界の埋もれた名作を観てもらいたい。」と発足した“エキプ・ド・シネマ”の会と同時に映画館としてスタートを切った。エキプというのは仲間という意味で運命共同体という意味も持っている…つまり「映画を通じた運命共同体」の会が、ここに誕生したというわけだ。

勿論、当時はミニシアターという言葉すらなく、メジャー作品以外の映画が上映される専門の劇場が無かった時代である。興行する側のリスクがいかに大きかったかは想像がつくだろう。「今の岩波ホールがあるのは、そんな呼びかけに賛同し集まっていただいたエキプ・ド・シネマの会員の皆さんのおかげなんです。」と宣伝担当の渡辺敬介氏は語る。当初2000人を超える会員からスタートし、第一回上映作品サタジット・レイ監督「大樹のうた」から現在に至るまで国籍・ジャンルを問わず様々な名作を紹介し続けている。「ウチで上映する作品の定義というものがあるとすれば各々のスタッフが話し合って“これなら岩波ホールで上映する価値がある”といった作品をセレクトしている事」たしかに渡辺氏が言う通り過去のラインアップを見てもジャンルは違っていても何となく岩波ホールらしい作品というのは伺えるはずだ。作品に傾向や片寄りがある訳ではなく作品の雰囲気がその時代毎の『岩波ホール』とリンクしているのかも知れない。1970年代は比較的ヨーロッパの作品が多くヴィスコンティ、ベルイマンなどの新作を取り上げ、80年代に入ってからはアンゲロプロス、アンジェイ・ワイダなどギリシャやポーランドといった日本で紹介されることがなかった国々の作品を公開するようになった。


その中でも80年代から最近に至るまでに数多く紹介されてきたのが第三世界といわれる南米、アジア映画の発掘であろう。特に中国映画に関しては創立25周年記念作品として公開された“乳泉村の子”が大ヒットを記録し、記憶に新しい所では98年に公開された“宋家の三姉妹”が記録的ロングランヒットとなりミニシアター動員記録でも歴代第2位を樹立している。「中国映画に関してはどれをとっても結果としてヒットしたというケースが多いんです。」それまでは記念作品として上映していたアジア映画だが、ここ数年はレギュラーとして定期的に紹介され、つい最近まで公開されていた“山の郵便配達”も大ヒットしている。「我々としてはヒットするかどうか…というよりも、やって悔いの無い作品を上映していくことを大事にしたいんです。つまりはエキプ・ド・シネマの名に恥じない作品を選ぶようにしています。」映画はその国に住んでいる人々が何を思い考えているかを伝える最適な手段と渡辺氏が語る通りテレビの報道だけでは知ることができなかった生の声が映画を通して感じることが出来るのだ。

そして、もうひとつの『岩波ホール』を説明する上で欠かすことが出来ない映画…オープニング第3弾として公開された宮城まり子監督の“ねむの木の詩”から始まる福祉をテーマとして取り上げた作品の数々である。“老親”を作った槙坪夛鶴子監督は『岩波ホール』で上映される事を目標に作り上げたというほど。また、羽田澄子監督がドキュメンタリー映画“痴呆性老人の世界”を作る時に高野総支配人が言われた「良いものだからタダで観せるというのではなく、良い映画だからこそ、お金を頂かなくてはいけない。」というエピソードなどは『岩波ホール』の姿勢を良く理解することが出来る。「当時はそういったドキュメンタリーが興行的に成功するのかというのが羽田監督も不安だったらしいのですけど…そういった誇りというのがスタッフが皆持っており、入場料金を頂ける価値がある作品だと自信を持って紹介してきているんです」


コチラの客層としては圧倒的に年輩の女性が多く、都内に限らず地方からはるばるやって来る方も数多い。「やはり昔からのファンの方が中心ですね。」と語る様にリピーターの数はエキプ・ド・シネマの会員にも反映されている。エキプ・ド・シネマの入会は至って簡単。9階の事務所にて専用用紙に必要事項を記入するだけでOK。入会金2000円で2年間有効の会員証が手渡される。1階のチケット窓口で提示すれば当日券1800円のところを1600円で鑑賞が可能、しかも窓口で前売り券を購入すると1200円と共に一人2枚まで前売りも割引の対象となるのがウレシイ。定期的に上映作品の案内も送られてくるので是非、入会して映画の世界を広げていただきたい。

ホールを囲むようにして落ち着いたシックな雰囲気を持っているロビーは、いたってシンプル。しかし受け付けでは上映作品に関連した書籍が充実しており作品に対する造形も深くなるだろう。場内は設立当初の名残が存在しておりスクリーンの手前には置く深いステージがある。今ではあまり使用される事が少なくなったのは勿体ない話しだが、この奥行きが観ているとスクリーンの中に吸い込まれていくといった不思議な効果を生み出している。

今後も予定としてフィリピンの映画に力を入れられるなど、その国の大衆に支持されて来た作品を紹介していく基本姿勢は変わらず、目が離せない。言葉では表現できない映画の良さを伝え、料金に見合った満足感を得られる作品を贈り続ける劇場のこれからのテーマとして「東京は数多くの映画が観る事ができる街なんですが海外の映画祭に行ってみると、まだ日本で掛かっている作品というのは片寄っているというのを感じます」と渡辺氏は述べる。


「決して日本で全ての映画がまんべん無く観る事が出来る状態じゃないんですね。そういった現状を見ているとエキプ・ド・シネマの役割は、まだまだあると思います」と更に続ける。設立から現在に至るまで数々の映画を日本に紹介し続けてきた『岩波ホール』=『エキプ・ド・シネマ』。映画ファンにとって、これからもそのスタイルは変わらずに在り続けて欲しいと思っていたのだが、そんな『岩波ホール』が、2022年7月29日に閉館する。理由は新型コロナの影響で環境の変化による運営が困難と判断されたためだ。コロナ禍になって丸2年…同じ理由で閉館された映画館はいくつもあったが、この一報は、ミニシアター文化の最後の牙城が崩された思いで、残念でならない。(取材:2001年9月の内容に2022年に加筆したものです)


【座席】 220席 【音響】 SRD

【住所】東京都千代田区神田神保町2-1 岩波神保町ビル10階 ※2022年7月29日を持ちまして閉館いたしました。

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