加賀百万石の城下町として栄えた北陸の最大の都市・金沢。多くの乗降客で賑わう駅前から一歩奥に入ると、表通りの喧騒から懸け離れた昭和の雰囲気が漂う一画がある。三代藩主、前田利常から宅地を給わった刀鍛冶が住み、鍛冶町と呼ばれた界隈だ。日が暮れて店に明かりがポツンポツンと灯る路地に、ひと際目を引くネオンサイン…その光に誘われるように入って行く男たち。昭和33年の創業以来、二番三番館の再映館から成人映画館として、多くの男たちを魅了し続けて来た『駅前シネマ』だ。最低入場料金55円、封切から半年経った一番最後に回って来る三本立興行でスタートしたところ、これが予想以上に入った。「後発の映画館が、格安の料金にして、お客さんが入ったものだから、それまであった映画館は面白くないわけですよ。組合に入れなかったり、配給会社に圧力を掛けたりしてね。だけど、再映館の仲間が、お客さんは回遊するものだから、ここで映画を観た人が封切館に戻る事があるんだ…と味方してくれたんです」と語るのは代表であり、石川県興行生活衛生同業組合の理事長も務めている藤岡紫浪氏だ。

創業者である祖父の藤岡幹也氏は、戦中戦後に質屋で財を成して、60歳を過ぎに映画館経営に転身した。「物資不足だった戦後は質草が売れていたけど、昭和30年代になると日本が豊かになって質屋を利用する人が少なくなったんです。そこでお金も溜まった祖父が飛びついたのが、一番儲かっていた映画館でした。だから祖父は映画に対する愛着は無く、テレビの影響で客足が落ちたら、赤字になるからもうやめたいと言い出していた(笑)」創設時は、“月光仮面”や“赤胴鈴之助”といった子供向けヒーローものを掛けて連日満員となっていたが、明仁皇太子のご成婚パレードがテレビ中継された昭和34年を境に入場者数が徐々に減少。それをカバーするため入場料をアップして売り上げを何とかキープしていたが、昭和39年の東京オリンピックでカラーテレビが普及すると、映画館は窮地に立たされてしまう。テレビの台頭に危機感を覚えた映画関係者は、テレビと同じものをやっていては客は来ないと言っていたが、この頃、最も入った番組の中に、“てなもんや三度笠”や“隠密剣士”そして“三匹の侍”が入っていた事に藤岡氏は注目する。「実際、テレビ以上に面白いものではなかったのに、視聴率が取れる作品は映画館でもヒットすると確信したんです」藤岡氏が番組編成を担当したのは昭和38年の高校生の頃。自分が企画した番組が大入りになって映画館運営の面白さを実感しはじめていた。「周りから次に潰れるのは立地の悪いウチ…と言われた事への反発心もあって、一生の仕事として続けるからやめないで欲しい…と祖父に懇願したんです。本当はやめたかったんでしょうけど、お前がやりたいんだったら…と、言ってくれました」昭和41年、大学に入った藤岡氏は支配人を任されると、手腕を発揮。そのユニークな番組編成が興行速報という業界誌で話題になった。


再映館の醍醐味を「1+1+1=3ではなく、4にも5にもなるところ」と藤岡氏は語る。また封切館と異なり、会社の枠を超えて自由に組み合わせが出来るのも大きな魅力であり、邦画5社の作品をいかに上手くコンビネーションを組んで行くかが腕の見せどころだった。「封切ではヒットしなかった作品を組み替える事でアベレージ以上に持って行くのが大事。長くやっていると、それぞれ再映館の個性が生まれて、番組編成の人間と観客の間で独特の雰囲気が醸し出されるんです」例えば、東映の“昭和残侠伝 血染めの唐獅子”と“北海遊侠伝”、日活の“爆弾男といわれるあいつ”といったガチガチのアクション路線をやったかと思えば、東映の“大奥(秘)物語”と大映の“眠狂四郎 魔性の肌”と“痴人の愛”のようなお色気特集などなど…タイトルを眺めるだけでワクワクする。一見、変化球のように思える番組だが、その根底に流れているのは、常に中高生を意識した『駅前シネマ』が不良のたまり場となるプログラムだ。

まだR指定なんて言葉が存在しなかった時代…学校帰りの高校生たちがカバン片手に立ち寄る。「併映作はお金を掛けていない分、スケベ心を駆り立てる作りなんです。そういうお色気もので高校生を呼び込むのが好きでね…今から思えば、それが成人映画をやる伏線みたいなもんだった」封切では添え物だった作品に男子中高生が飛びついて『駅前シネマ』を支えたのだ。逆に封切でドル箱だったメインの作品は振るわず、石原裕次郎よりも渡哲也、鶴田浩二よりも梅宮辰夫に人気が集まったのが面白い。「もっとも、2ヵ月もロングランしたヒット作は、封切で根こそぎ観られてますから再映館では殆ど入らないんです。“日本のいちばん長い日”も“日本沈没”もやったけど、上映料が高い割にはダメだったね。だからといって添え物の映画が全て入るかというとそうではない。市川雷蔵でも“眠狂四郎”は入るけど“忍びの者”は入らない…そんな難しい映画では無いんだけど、これだけは今でも理由が分からないままだね」

昭和45年になると低迷を続けていた日活と大映が予想外のヒットを繰り出してきた。大映の“でんきくらげ”や“夜のいそぎんちゃく”などの渥美マリ主演作と、日活の“ハレンチ学園”や“野良猫ロック”である。「さすがに“ハレンチ学園”は3作目で飽きられたけど…それはそれで面白かったね。メインじゃなくて併映作を観たいという人も中にはいるんです。封切でコケタ映画をウチが積極的にやるものだから配給会社の営業も助かっていたはずですよ」その成功例にならって東宝も五社英雄監督のヤクザ映画や、“高校生無頼控”というお色気ものを撮っている。「ウチでも掛けましたけどあれはよう入りました。お色気映画はひし美ゆり子が出ると強かったんだ」そこから一気に不良のたまり場の道を突き進み翌年には“高校生ブルース”や“おさな妻”などの思わせぶりな作品が大いに話題を集めた。また東映では、石井輝男監督の異常性愛シリーズが大ヒット。“徳川女刑罰史”は2回もアンコール上映をする記念碑的な作品となった。


この時代には多くの映画館が成人映画に切り替わっていたが、『駅前シネマ』は意外にもピンク映画にすぐに飛びつかなかった。以前、新東宝の“0才の女”を“白日夢”と“肉体の門”の併映作として上映して以降、数本のピンク映画をやっただけで、なかなか踏み切れなかったのは、香林坊映画街にあった“スカラ座”がピンク映画の専門館だったから。「さすがにピンク映画の二番館はやりたくなかったし、独立プロから売り込みに来ていたけど、どれも粗悪で話しにならなかった。まだその頃は邦画5社の作品でも充分儲かっていたし、やっぱり中高生の不良のたまり場にしたかったから、独立プロのピンク映画はやりたくなかったんだ」

ところが、昭和44年に上映した立体映画“変態魔”が予想外のヒットを記録。チャチな赤と青のセロファンを貼った紙のメガネで観るインチキ臭い代物だったにも関わらず評判が良かったという。それ以降、新東宝や大蔵映画のピンクをやっては、好成績を収めていたのだが、そんな時にダイニチ映配が倒産してしまった。「不良のたまり場を維持したくてもお色気ものが無い…仕方ないからピンク映画の旧作を含めて頻繁に掛けるようになりました。日曜から火曜までは一般映画、水曜から土曜まではピンク映画に分割して、山本晋也監督の“ボインと痴漢”や若松孝二監督の“日本暴行暗黒史”、渡辺護監督の“(秘)湯の町 夜のひとで”などピンク映画初期の傑作と呼ばれる作品は全てやったよ」


「この頃の日本映画は大作主義のちょっと嫌な時代になっていた。“ゴルゴ13”を4週間のロングラン興行やったりしてね。ウチとしては添え物が欲しいのに一本立て興行になって併映作品が無くなってしまったんです」こうした状況の中、番組編成に苦戦を強いられていた『駅前シネマ』の窮地を救ったのが日活ロマンポルノの登場だった。「今まで成人映画を主力とするのに抵抗があったけど、あの日活がポルノ製作に路線変更した事で踏ん切りがつきましたね。ちょうど今まで来てくれた高校生も大学生になって、ロマンポルノを観れる年齢になっていたしね。ピンク映画はやらない主義だった祖父が、お前に全て任せると引退したので、思い切って切り替えたんです」昭和47年2月に上映した“団地妻 昼下がりの情事”には再映にも関わらず普段の5割増以上の観客が詰めかけた。ここでも再映館の強みを活かしてロマンポルノ作品に東映のお色気ものを組み合せるなど、ユニークな三本立が大ヒットしている。「これも再映館ならではの妙味なわけで、封切館の“金沢日活”と差別化を図れた」そして、ここから祝前日に行われる駅前シネマ特別オールナイトが定着。監督ごとに5〜6本の特集を組んで朝まで上映していた。「面白いのは本興行でコケた神代辰巳や藤田敏八監督特集が一番の人気で、昭和51年にやった神代辰巳監督特集6本立には500人の動員数という最高記録を出したんだ。昭和47年から61年はえらい儲かったね」駅前から引っ込んだところにある立地の悪さが功を奏したのだ。「祖父からは、お前に任せたらこんなものばっかりやって…って、文句を言われましたよ。祖父には10万円くらいしか給料を払えていなかったのにピンク映画をやったら50万円も貰えるようになって…何でこんなに貰えるんだ!って(笑)」

昭和50年には日活の成功に刺激された松竹も最低のピンク映画と言われる東活映画を配給するようになる。昭和52年から『駅前シネマ』でも扱ったが、東活映画三本立興行は何故か好評だった。昭和53年10月、名物刊行誌“駅前シネマニュース”が発刊され、作品批評からニューウエーブの監督を意欲的に掲載。普段ピンク映画に関心の無い人を取り込もうとしたものだが、全国のファンからも大いに注目を集めた。不定期に上映していた洋画ピンク映画が注目を集めたのもこのあたり。昭和52年にはアメリカン・ポルノが台頭し、“ディープスロート”と“グリーンドア”に大島渚監督の“愛のコリーダ”を付けてハードコア大会と銘打つと高成績を収めた。更に昭和55年9月に上映した“ウォーターパワー”が大ヒットを記録…まさに洋ピンブームの到来だった。「アダルトビデオが出る前だったから、ボカシがキツくても本番をやっている洋ピンにお客さんが詰めかけたんだ。それも昭和60年にはビデオが普及して、若い男性が潮を引くように映画館に来なくなったね。それからも細々と上映はしていたけど最後まで残っていた洋ピン配給会社のニューセレクトが平成5年に新作の封切を打ち切ってしまったのが終焉だった」そのアダルトビデオの生みの親である代々木忠監督が35mmにブローアップした“ザ・オナニー”は、金沢の成人映画館の様相を一変させたのは時代の必然性だったかも知れない。「最初は洋画系の“シネマ2”でやっていたんだけど、そこの社長が、こんなもの映画じゃない!って、2〜3日でやめてしまったんです」それを藤岡氏が引き継いだところ爆発的なヒットを記録したのだ。それからしばらくしてアダルトビデオのレンタルが始まり、気がつけば金沢の成人映画館も『駅前シネマ』1館を残すのみとなった。

『駅前シネマ』の上映は朝10時から始まる。TOBACCOの電飾看板がイイ味を出している受付を通ってロビーに進むと、映画も観ないで長椅子で熟睡している親父がいたり、頻繁に女装の客が場内から出たり入ったり…と、意外とロビーは賑やかだ。場内の雰囲気は創設当時から殆ど変わっていない。天井が高く大きなスクリーンは、昭和の映画館らしい開放感がある。「椅子もボロボロだから写さないでおいて」と、藤岡氏は笑うが、ところどころカバーが破れた背もたれから劇場の長い歴史を感じる。「残り物には福なのかな…何とか全盛期に儲かった惰性で今に至っているんです。まぁ、常連客もアウトサイダーだったり、女装愛好家や、家でアダルトを観れない爺さんたちを集めて細々とやっているのが実情です。修繕にお金も掛けられないし…現状維持するのが精一杯ってとこだね」裏手にある細長い階段を二階へあがると、山積みにされている昔のピンク映画のプレスシートやポスターなどお宝の山。もうひとつ目に入ったのが事務所の横にある「宿直室」と書かれたドア。以前、劇場には宿直をしていた選任のお爺さんがいて、夜はここで寝泊まりして番をされていた…というのはSECOMが入る僅か数10年ほど前の話し。年季の入った小さな洗面台やガスコンロから当時の様子を伺える。


広い映写室ではフィルム映写機が現役で稼働している。最盛期には映写担当が4名と映写室長が1名いたそうだ。カーボン映写機の時代は、2台の映写機に1名ずつが付きっきりで、遅番と早番の体制を組んでいた。更に映写室の奥には「電気室 控室」というドアが。そこは映写室長の部屋で、場内が見渡せる大きな窓からスクリーンの映り具合を管理していたそうだ。「以前は新作をやる事に捕われていたけど、逆にデジタル化をしない道を選んだ今は、フィルムが残っている昔の映画を自由に組み合わせて番組を考えるのが面白いね。第二の全盛期だったエクセスや新東宝時代の作品だって、たくさん残っているから、しばらくはフィルムを回していてもイイんじゃないかって。常連のお客さんからも昔の作品の方が良いと言われてるしね。ウチの場合は新作をやると落ちるんですよ。当時、浜野佐知監督や新田栄監督が頑張って映倫と戦って来た作品を再映でやったほうがお客さんは喜んでくれるので、これで行けるところまで行ければ…って思いながらやっています」実際に、新作を掛けていない現状でも動員数はほとんど落ちていないという。「結果的にはお客さんのニーズにある程度応えているんだよ」

藤岡氏は、番組を組むに当たって、都会と同じようにマニアックな特集を組んでも地方では入らない…だから監督特集よりも人妻特集だったり痴漢電車特集といった明確なジャンルで番組編成を常に考えなくてはならないと、繰り返し言う。「痴漢電車特集にしたって、昔に比べると弱くなっているから、1本だけ痴漢や電車を想起させるような作品を入れたりしてね。語呂合わせも大事なんです。職業婦人特集だったら女教師とか愛人秘書室とか、夏になるとお化けものっぽいものを3本集めたり、濡れ過ぎたパンティとか湿っぽいタイトルの作品を集めて夏向きの卑猥な感じの特集にしたりとかね(笑)。ラインナップを見たお客さんには、支配人がインパクトを与える番組を考えて作っているんだな…というのは必ず伝わるものなんです。適当に流れで組んでいると見透かされて離れて行ってしまう。そうやってどうやったら興味を持ってもらえるのかばかり考えていますよ」

「今、全国でちょっとした事で異物を排除する傾向にあるじゃないですか。だから、こうやって成人映画館を続けているのがひとつの快感なんです(笑)。まだやっとるんか?って皆が不思議がるんですよ。若い人らは珍しがって映画館の前でスマホで写真を撮って行きますから、まだ良い時代だと思いますよ。金沢には茶屋街という観光地があるんだけど、あそこだって昔は遊郭だったんだからね。だからウチが如何わしい看板を出してやっている間は、日本もまずは大丈夫でしょう」と笑う藤岡氏が最後に述べてくれた言葉に、昭和から平成へと興行界の荒波で生きて来た興行師の頼もしさを感じた。「私もあと何年頑張れるか分かりませんけれど、一人の語り部として、もうちょっと好きな事を言って生きたいと思っています」(取材:2016年8月)



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