日本に映画が入って間もなく、稲畑勝太郎が初めてシネマトグラフによる上映を行ったことから、映画興行発祥の地と呼ばれている京都には、二つの興行街があった。賀茂川にほど近い新京極と、京都御所の西側にある今出川から中立売に位置する千本通だ。どちらも近隣に遊郭がある花街として明治の初めより栄えてきた。数多くの芝居小屋や寄席が軒を連ね、浅草や新開地と肩を並べるほど巨大なマーケットとして昭和30年代前半まで賑わいを見せていた。当時の千本通には10館近くもの映画館が建ち並び、芝居や映画に興じる多くの人々が闊歩して、銀ブラならぬ千ブラという言葉が生まれた程だ。また、この界隈は西陣織で全国にその名を知らしめており、数多く密集する機業で働く職工や女工さんたちが気軽に訪れる庶民的な街でもあった。

千本通で初めて常設映画館が設立されたのは明治41年。日本映画の父・牧野省三が館主を務めていた芝居小屋の“千本座(後に日活直営館となる“千本日活館”)”が始まりだった。大正時代には座長である尾上松之助が、目玉の松ちゃんという愛称で人気を博し、連日、扉が閉まらない程、多くの観客で場内は鮨詰め状態となっていたという。しかし、戦後の昭和33年に施行された売春防止法によって遊郭は全面廃止。それまで遊郭に頼っていた地域だけに、人を集める何か策を講じなければ…と、組合は考え、西陣新地土地建物株式会社が鉄筋コンクリート造三階建の“五番街東宝”という東宝封切館を建設して、経営に乗り出したのである。冷暖房完備、観客定員数600名という後発ながらも最新の設備で、昭和36年7月15日に“香港の夜”と“大学の若大将”でオープン。こけら落としには、宝田明、浜美枝、藤山陽子が来場した。ちなみにその場所は、昭和38年に田坂具隆が監督して映画化した水上勉の小説“五番町夕霧楼”の舞台になったかつての五番町遊廓の花街組合の事務所があった跡地である。


しかし、その頃は映画の斜陽化が囁かれており、何で今さら映画館を作るのか?という疑問視で見る関係者が大半だったという。唯一この地区に東宝の封切館が無かった事から勝機を見いだそうと試みたらしいが、西陣のような庶民的な街には、都会的な作品がウリの東宝作品は受け入れられず、かなり苦戦を強いられたようだ。それから間もない昭和38年6月、日活が一連の資産売却方針により、既存の“千本日活館”を閉館。入れ替わるように“五番街東宝”の館名を『千本日活』と改名して、東宝から日活の封切館となり、経営も彦根にあったレジャーセンターが引き継いだ。ところが、西陣地域の映画市場は既に6館にまで減るという縮小方向にあり、運営は思うように立ち行かず、オーナーは早々に撤退してしまう。「所詮は素人の集まりで、元々映画に愛着があるワケではないから、そう簡単に興行なんて上手く行くはずが無い。少しだけやって儲からないから、すぐに諦めてしまったんやな」と語ってくれたのは、昭和41年から経営を引き継いだ宮崎興行株式会社の四代目代表を務める宮崎英嗣氏だ。「ある日、当時社長だった私の父(三代目の三郎氏)に日活の取締役から連絡があったんです。西陣にある映画館の面倒見てもらえないか…と」

『千本日活』を引き継いだ頃は、日活もピークを過ぎたあたりで、吉永小百合の“愛と死を見つめて”が公開された頃だった。「結局、それがウチで一番当たった一般映画なんですが、そこから段々日活もあかんようになって来たんです」周囲を見渡すと、独立プロダクションが次々とピンク映画を製作しており、小さな個人館は、成人映画館となる事で活路を見出していた時代だ。「日活がまだ一般映画から成人映画に路線変更する前に、私の父が日活とモメたんです。新東宝や大蔵映画がピンク映画をやるっていうのに、相変わらず一般映画を作っている場合じゃないだろう!…って」成人映画をやろうと決めていた三郎氏は、日活と訣別して、館名に日活の冠を残したまま新東宝と大蔵映画の上映を開始した。日活がポルノ製作に路線変更したのは、それから間もない昭和46年11月だ。「成人映画に変わる時は親父も躊躇したと思うけど、もうどうしようもないから、変えざるを得なかった。それは成人映画に見込みがあったからやろうな。現実的にお客様の状況を肌身で感じていたのは最前線の現場にいた親父やからね」四代目である英嗣氏が映画館を受け継いだのは三郎氏が亡くなる平成4年の事である


「京都だからピンク映画全盛期は学生が多かったな。当時は下宿にテレビもビデオも無い時代だから、深夜映画に立命館とか同志社の学生が大挙してやってきた。夜遅くまでどこかで飲んでいて、深夜0時を過ぎたあたりから流れてくるんや」と振り返る。当時の成人映画は、学生が共感出来る芯の通った作品が多く、高橋伴明、山本晋也、若松孝二、滝田洋二郎が監督としてメキメキと頭角を現して、それに呼応するかのように異様な盛り上がりを見せていたという。「実力のある監督ばかりでしたからね。一般映画と比べても見劣りしない作品だったから、学生たちにウケたんでしょうね」ところが、レンタルビデオの普及と共に客足も次第に減少。「しばらくは大作という謳い文句で金を掛けた新作を発表し続けたど、それでも客が入らんようになって。団鬼六の原作ものでもヒットしなくなった」今では年輩の常連客が中心でゲイのお客様も多い。「昔から映画館をやってきた人間からしたら、これが映画館か?って思いがあるわけや。今はホンマに映画を楽しもうという客が少なくなったな。でも、そういったお客様のおかげで食っていけているワケやから否定は出来ませんけどね(笑)」

「10年くらい前から、いずれはデジタルの時代が来るだろうと…よく新東宝の社長と話していたんですわ」英嗣氏は、かなり早い段階からデジタルの再現性についてメーカーと検証を始めていたという。「昔の映画館だから、映写室からスクリーンまで25メートルの距離があるからスクリーンも大きい。だから、小さなスクリーン用のプロジェクターでは光量が足りなくてダメなんです。フィルム映写機ではキセノンランプを使用して2キロワットの明るさで投影していましたから」そこで、英嗣氏は導入前にプロジェクターを運び込んで試写を行ったのだが…「ところが、その時の画質が悪くて、これでは映画館では使えないって…。やっぱり映画館はフィルムじゃないとダメやろうなって思ってた。その時の印象があまりに強かったから、しばらくデジタルは考えてなかったんやけど、次世代のプロジェクターが出たっていうので、また試写をさせたら割とキレイに映っとったんや。前の機種と同じ価格で、この画質ならイケル!と思ったので導入を決めたんです」その映像を見た英嗣氏は、デジタルは意外と早く普及するかも知れないと思ったそうだ。「映画館は、こういう革命的な事って初めてやからな…今までずっとフィルムが当たり前だと思っていた。今までそういう波が無かっただけの話で、それを現実として受け止めるしかない」



宮崎興行株式会社は、初代・宮崎亀石氏が奈良県大和高田市で明治30年頃に立ち上げた“大黒座(大正9年に高田劇場と改名して常設の東宝専門の映画館となる)”という800席の芝居小屋が前身となっている。「旅芸人一座を手配して興行を打つ…いわゆる興行師みたいなもんやな。興行も奈良から始まって、最後は和歌山へ抜けるような道順で移動していたらしいですわ」そこで財を築いた亀石氏は、明治43年頃に共同で600席の弁天座(大正7年に花月座と改名)という芝居小屋を立ち上げ、いよいよ映画が娯楽の中心となった昭和23年に洋画専門の常設館として再オープンを果たす。更に昭和31年には二代目となる宮崎英雄氏が、1000席を有する洋画専門の大劇場“高田大劇”をオープンさせるなど奈良県最大の興行会社として成長してきた。「ウチは興行ひと筋の一族やから、今さら他の事なんて出来ないんや。まぁ、ウチらはこれでしか食うて行けへんから踏ん張んねんけどな」と、英嗣氏は、かつて“大黒座”の屋根にあった大黒様を象った瓦の飾りを見ながらしみじみと語る。


現在は、新東宝映画、オーピー映画、エクセスポルノの三本立一週間興行を入場料500円で行っている。「入場料を変えるのも勇気がいるわけや。いくら苦しくても昔から三本立でやっているから、今さら返られへんもんな。仕方ないから、食べてけるだけの儲けがあればエエわ」と笑う。ちなみに二階席はプラス100円。二階席を“お直り券”と呼ばれていた時代の名残だ。「直り100円ちゅうてな、今でも二階を好まれる方がいるんですよ」二階席はスタジアム形式となっており、正に特別席の風格が漂う。「今の客の入りを考えたらもっとコンパクトにしたい。広いから光熱費やら掃除やら管理が倍ついてしまうからなぁ」英嗣氏の苦労はそれだけではない。「三本立だから作品が大変。再映でだけでは足りないから、新東宝からは月に二本とかビデオの新作とかを流してもらっていますわ(笑)」夜10時を過ぎたあたりで映画館の灯りが消えると周辺はひっそりと静まり返る。「これしか生きる道が無いから、このままずっとやっていくしかないんやろうなぁ」と最後に言われた言葉が心に残った。(取材:2015年4月)


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