潮の香りに誘われるように明石駅から港へ向かってブラブラ歩いていると、程なく魚の棚という粋な名前の小さな市場に出くわす。近海で獲れた魚が並ぶ活気ある市場を抜けると海はすぐそこ。港には赤茶色の底曳網が印象的な漁船が停泊しており、淡路島に渡る高速船もここ明石港から出航している。石原裕次郎が東京から熊本へ古いジープを運ぶロードムービー“憎いあんちくしょう”で、追いかけてくる浅丘ルリ子演じる恋人を撒くために淡路島から四国へ渡る場面で登場したのが明石港だ。そんな港を背にして創業時と変わらぬ昭和の風情を残す成人映画館『本町日活』がある。エクセスポルノ封切という大きな看板と日活Kマークが堂々と掲げられた入口から中に入るとロビーの壁にはロマンポルノ時代に一世を風靡した片桐夕子や宮下順子など女優たちの顔写真が飾られている。場内をコの字に囲むロビーには創業時から変わっていないであろう大きく非常口と書かれた扉が設置。ベンチシートの横には年代物の木製のゴミ箱が置かれていたり、トイレは昔ながらのスタイルで昭和の時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。

『本町日活』が設立されたのは戦後間もない昭和22年。「それ以前の建物は戦時中、焼夷弾による火災から街を守るため取り壊されたんです」と、語ってくれたのは代表を務める柏木弘氏。「明石には飛行機の製造工場がありましたので、空襲の対象になっており、多くの方が亡くなっているんですよ」駅の反対側にある兵庫県下で最も大きい県立明石公園に市民が逃げ込んだところに爆弾が落とされ、一度に多くの犠牲者が出たという。「みんな、まさか緑のところには爆弾は落とさないだろうと逃げこんだんですよね。そんな感じで、この辺り一面全て焼け野原になってしまったそうです」終戦を迎え、柏木氏のお父様である創設者の柏木約吉氏は焦土と化した明石の街で再び映画の灯をともそうと立ち上がる。そして、現在の場所で洋画専門館"本町劇場"という館名で再スタートを切った。



『本町日活』の前身は、現在の劇場から少し離れた場所で芝居や寄席、映画を交互に掛けていた"三白亭"という小さな小屋だった。大正11年にはエンタツ・アチャコがコンビ結成以前に即席コンビを組んで、"三白亭"の舞台に上がったという記録が残されている。播州路を巡っていた劇団に所属していた二人は、急遽、幕あきを延ばすために何の用意もなしに舞台に出たために観客から野次られ、這々の体で引っ込んだという。二人が正式にコンビを結成して人気を博すのは、それから10年後の昭和6年である。

「財産も何もない状態でのスタートでしたから、民謡、安来節とかをやる一座を呼んできて公演してもらったりして…そういうところから少しずつ蓄えていったと聞いています。母親は屋台で玉子焼き(明石焼き)を焼いて生計を立てていたと、よく聞かされてました」しばらくして、駅の近くにあった日活の映画館(経営は全く別の会社)が閉館してから日活作品を上映するようになり、館名を現在の『本町日活』と改めた。「母親は洋画をやってえらい損したって言うてましたから(笑)ここから石原裕次郎や小林旭といったスターが現れて生活も徐々に上向きになってきましたね」正に石原裕次郎のヒット作“嵐を呼ぶ男”が公開された時は、場内の扉が浮いて閉まらない程、多くの観客が訪れたという。「320席の場内にギュウギュウに詰めて600人のお客さんを入れてましたから、後ろのお客様は人の隙間からスクリーンを覗くような感じでしたよ」

現在もスクリーンの前には回り舞台の広いステージと裏手には楽屋も手つかずのまま残っている。当時は市民会館や公共のホールが無かったため、歌謡ショーや落語といった催し物をやる時に使われていたそうだ、また、新作映画の舞台挨拶も頻繁に行われており、数多くの日活スターがこのステージに立っている。和泉雅子、松原智恵子、太田雅子時代の梶芽衣子、男優では浜田光夫、高橋英樹、山内賢といった日活グリーンラインと呼ばれる青春映画のスターが多く来場している。「また、渡哲也さんは淡路島出身なので、渡瀬恒彦さんがまだデビュー前、淡路島には日活の封切館が無かったものですから家族と一緒にお兄さんの出ている映画をわざわざ播淡汽船に乗って観賞されてましたよ。ご家族は自分の息子が出ている映画だから当然売り上げに貢献させてもらいますって、入場券を買って観てくれたと両親は感動してました」また、“憎いあんちくしょう”の明石ロケで出番のない浅丘ルリ子を案内したのが先代の約吉氏。ロケに来ている俳優のお世話をするのが地元の館主というのが決まりだったそうだが、「後日、父が東京の日活撮影所で浅丘ルリ子さんとすれ違った時に顔を覚えてくださっていたらしく挨拶していただき感動していました」当時、全国の館主が撮影所に招待される館主会が定期的に開かれており、パーティーでは石原裕次郎や小林旭が舞台で歌を披露したそうだ。「古き良き時代ですね」と柏木氏は当時を振り返る。



ところが、昭和40年代に入ると日本映画の動員数が現象の一途を辿り、映画会社の経営を逼迫し始める。昭和45年には大映と日活は共同製作を行うダイニチレーベルを立ち上げるも失敗に終わり、昭和47年には遂に日活がロマンポルノ路線へと経営方針を変更した。しばらくは多くの観客が劇場に詰めかけるも昭和60年に入るとロマンポルノも下火となり日活は映画製作から手を引いてしまう。「そこで旧日活の流れの人たちが新日本映像(現在のエクセス)という会社を立ち上げて、我々のような立場の成人映画館を守ろうとしてくれたのです」

「成人映画としては10年くらい前がピークでしょうか…他の地域と違って明石は少し遅れてピークが来ているんです。この時はたくさんのお客様に入っていただきましたね」ちょうど、ピンク四天王が活躍していた時期で、作品としては小林ひとみなどアダルトビデオの人気女優が作品のタイトルに付いていた時代だ。現在は昔からの常連さんが多く、土地柄か漁業関係の方が漁が終わった平日の昼間に来られるそうだ。「バブルの頃は外回りの営業の方が時間潰しのために、近所のお弁当屋で買ったお弁当を持ち込んで中で食べながら休憩されていました。今、いらっしゃるお客様は、刺激を求めるというよりも成人映画が好きという方々が多いですね」平日は朝11時過ぎに開場して夜8時過ぎに終映という短い時間にも関わらず入場者数は50人から100人という繁華街から離れている成人映画館としては比較的多い。「昔は夜もお客さんが来てくれはったんですけど、明石の場合は都心と違って夜が早いんですよね。それでも昔は夜9時過ぎでもお客さんがいたんですけど、今はさっぱりダメですね」

戦後の焼け跡から再建した『本町日活』だが、またしても試練が降りかかる…平成7年の阪神淡路大震災だ。「劇場に駆けつけた時、建物が残っていたのを見て家内と二人で喜んだのも束の間。場内のドアを開けたら天井が崩れて青空が見えてるんですよ(笑)正直、愕然としましたね」と、当時を振り返る柏木氏。「その数年前の台風で屋根瓦が吹っ飛んで、それをキレイに直したばかりで、何年も経たない内の地震でしたから」


それでも肝心の躯体と客席やスクリーンが無事に残っていたのが、せめてもの救いだった。「その頃は成人映画が良かった時代でしたから…今ならそのまま閉館していたと思います。配給会社からも、再建するなら映画のプリント料金を配慮しますと言ってくれたので、頑張ってみようかと。ただ、当時はあちこちで復旧工事が行われていて職人さんの取り合いでしたから、やってくれる方を見つけるのがひと苦労でした」その時に関わった大工が、この劇場を作った方は良い仕事をされていますよ…と、感心していたという。戦後の物資不足で大変な時期に、震災にも耐えうる資材の調達と丁寧な仕事ぶりに、戦後の復興に燃えていた当時の人々の思いを垣間見る。そしてゼロから映画館の再建に尽力をつくした創業者たちの思い。今でも二台の映写機でフィルムの掛け替え上映を行う70歳を過ぎたベテランの映写技師が映画館の心臓部を守っている。戦争と幾多の災害を経て、館名や上映する映画は変わろうとも、送り手と観客の架け橋となる映画館の興行精神は昔から全く変わっていないのである。(取材:2013年8月)





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