風光明媚な東北の港町、宮城県石巻市。江戸時代からから東北を代表する水揚げ高を誇る漁港として栄えた街の佇まいが随所に見られ、まるで昭和の時代にタイムスリップしたような感覚に陥る。旧北上川のほど近く、昔ながらのスナックや小料理屋が軒を連ねる繁華街に入ると県内に唯一残る成人映画館『石巻日活パールシネマ』がひっそりと佇んでいる。派手な電飾や看板も無く、更に入口には小さな祠が鎮座しているため、初めて来た人はそのまま通り過ぎてしまいそうだ。通りに面した入口をくぐると路地のような通路が続き、その奥に劇場のエントランスがある。

『石巻日活パールシネマ』は、嘉永5年(1852年)吉田松陰が宿泊した栗野邸の跡地に建てられており、今でも劇場の裏手には宿所跡の立て札が設置されている。明治30年頃、仙台藩から払い下げられたコチラの敷地を買い取って、そこで酒蔵を始めた清野家。「当時の酒屋って色んな事業をやっていましたから…私の先代も同様に芝居小屋をこの地で始めたのがキッカケですよ」と語ってくれたのは支配人の清野太兵衛氏だ。前身は少し離れた場所にあった“石巻歌舞伎座”(大正15年に開業)という当時では珍しい3階建ての鉄筋構造の芝居小屋。「開業する時に酒蔵をやっていた現金(当時の金額で数万円)を全て注ぎ込んだそうですから。現金を支払う時、“家族皆で、道楽みたいなものに注ぎ込むなんて勿体ないね…”とため息をついたって私の母親が言ってましたよ」と当時を振り返って笑う。当時、石巻には松竹系の劇場しかなかったため、昭和5年頃から芝居の合間に日活の活動写真を上映するようになる。





しばらくは映画舘ではなく、“パールダンスホール”として営業することを余儀なくなれていた。「昭和23年頃のクリスマスパーティーの時なんかひと晩で11万円(今の金額で1千万円くらい)も売上があったんですよ」と語る清野氏だが、映画興業の夢は捨て切れず、昭和30年にようやく映画館(館名は“パール映画館”)としてオープン出来るチャンスが訪れる。「銀座にあった映画配給株式会社(映配)に頼みに行ったら、洋画のフィルムを廻してくれたんですよ」オープン当初は“白人部隊”やブリジット・バルドーの“私は夜を憎む”といった洋画専門館であったが、1年後、日活が専門館のチェーン展開を行なう事となり、館名も『日活パールシネマ』として再スタートを切る。ところが当時は既に日本映画最盛期、清野氏は再映でも良いからと石原裕次郎の“鷲と鷹”や“勝利者”を掛けたところ400席の場内が満席になり、即席で2階席を作ってお客さんを入れたという。

「私も小学校の頃よく手伝いをさせられました。小学校5年に上がった頃から大河内伝次郎の“丹下左前 苔猿の壺”がオールトーキーになって、その時は大勢お客さんが入っていたのを鮮明に覚えています。まぁ、弁士からトーキーに変わる時代をこの目で見てきたわけですから、興行以外の仕事は出来なくなりましたね」と、当時を振り返って清野氏は笑う。ところが昭和16年、一族は好調だった興業から一度手を引いてしまう。「それは私の伯父が政界に進出する事になったためですが…」それでも幼い頃から親しんできた映画興行を再開したいと思い続けていた清野氏は、昭和26年に木材の統制が解除され材木が払い下げられたのを機に、同年11月に念願の劇場を建ててしまう。しかし、戦後の五社協定制度に阻まれ、劇場を建てたもののフィルムを貸してくれる配給会社がなかなか見つからなかった。











あまりの入場者に真冬でも暖房が要らなかったというが、逆に夏場は大変で、近所のアイスクリーム屋からアイスを買ってきて休憩時間はスタッフ総出でアイスを売っていたというエピソードが残っている。(ちなみに、冷房を取り入れたのは石巻で一番目らしい)「最初の日活は新国劇の“国定忠次”とかをやったりしてなかなかお客さんが入らなかったんだけど、裕次郎映画で一気に巻き替えしたよね」と、当時を振り返る清野氏。それ以前とは見違えるような盛況振りで、チケット売場の小窓から次々とお札が振ってくるようだったという。
裕次郎以降、小林旭、赤木圭一郎とヒットシリーズが続々と作られ、連日半分以上が立ち見であるにも関わらず、大勢の観客が劇場に詰めかけ、正面入口から入場した観客を裏手の出口から退場してもらっていたという。「日活全盛の頃、銀座にあった日活の本社に行った時に銀座の高級デパートで目の前にあるネクタイを何の躊躇もなく買っていましたよ」と笑う清野氏。最盛期の日本映画界を如実に表したエピソードである。オープンより昭和45年まで400席の1館体制で興業を行っていたが、日活がロマンポルノに路線を変更したのを機に現在の2館に分割リニューアルしている。


『シネマ1』では日活ロマンポルノ、『シネマ2』では“蒲田行進曲”や“男はつらいよ”の松竹作品をしばらく上映していたが、現在は、エスセス、大蔵映画、新東宝の成人映画三本立て興行で、あくまでもフィルム上映に清野氏はこだわっている。だからだろうか、客層も年輩の方がメインとなっているが、若い成人映画ファンのお客さんがぶらりと訪れる事もあるという。「ウチは結構、純粋に映画を楽しもうという人が多いので、顔見知りのお客さん同士がロビーで話しをしていますよ」つい最近、東北最大手だった成人映画館“シネマ仙台”が閉館したため、仙台市内からのお客さんも増えているらしい。「仙台から流れてきたお客さんは同性愛者の方が多く、発展場が無くなったから出会いの場を求めて来ているのでしょうけど…ロマンポルノ全盛の頃は、女性も観に来られたのに、次第におかしな性癖の人が多くなってきて、今では成人映画館は世の中の裏の世界になってしまいましたよね」と清野氏は現状の成人映画館事情を嘆く。「昔は良い作品がたくさんあって我々業者はプライドを持ってやっていたのですが、お客さんの方が卑下ちゃったんです…その頃からですね、客層が変わってきたのは。他所の映画館は知りませんが、ココでは、迷惑を掛けるような事をしたら出て行ってもらいます。我々は純然たる映画関係者であって良いと思っていますから、映画館はあくまでも映画を楽しむ場所なんだという経営理念は貫き通しています」と語る清野氏。「ウチに来る昔馴染みのお客さんは毎週足を運んで、何かを感じて帰っている…中には健康のためと日課にしている人もいますから、映画館ってそういう場所で良いと思うんです」そして、もうひとつ清野氏がこだわっている事がある。「入場料割引をやっていないんです。だって、他の人が自分よりサービス受けていたら面白くないでしょう。30年近く、入場料金は1,600円で据え置きですから、サービスデーとか作って不公平にする必要は無いと思っているんです。一番、良いサービスというのはずっと値段を変えない事ですね」

昭和40年代までは大映、松竹、洋画専門館等5館の映画館が軒を連ねていたこの界隈も今ではコチラを残すのみ。「周りの映画館の支配人は羨ましかったと思いますよ。黙っていてもロマンポルノに人が入るからね」と語る清野氏の言葉に当時の盛況ぶりが伺えるが、「そこで小銭が貯まったものだから近くでボーリング場始めちゃったんですよ」と頭を掻きつつ、ハハハと豪快に笑う。当時は日活や松竹も都内の直営館にボーリング場を併設するなど新しい遊技場を次々と立ち上げていた時代だ。「最初は良かったんだけどブームが去ると残ったのは借金だけ…やっとこの間借金を払い終わりましたよ。でも、そうした苦労があるから今でもを客さんが入らなくても何とかやっていけるんですよ。そしたらいつの間にかこの仕事を始めて60年も経ってしまったものね。もう映画は自分の天命だと思っていますよ」今年で84歳を迎える清野氏はまだまだ現役で劇場の仕事をバリバリこなしている。「頑固かも知れませんが、私の思う通りの経営を続けて、それでもイイって思ってくれたお客さんが観に来てくれれば、それで良いと思っているんですよ」と笑顔を見せる清野氏。フィルムにこだわり、重たいフィルムの掛け替えや場内清掃や補修といった業務を全て手ぎわ良くこなしている姿に映画を愛する映画人を見た思いがした(取材:2010年10月)



【座席】『シネマ1』180席/『シネマ2』80席 【住所】 宮城県石巻市中央1-3-14 
2014年8月29日を持ちまして閉館いたしました。

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