長野県の南に位置する豊かな自然に恵まれた南信州・飯田市。南北を中央アルプスと南アルプスに挟まれ、天竜川沿いに発展してきたこの街は、古くから飯田城の城下町として栄えてきた。辰野から飯田線に乗り換えて2時間…本来、東京からであれば、山に囲まれた飯田に列車で行くのはとても遠回りで、大抵の人は直通の高速バスを利用するのだが、天気が良いので信州の風景を楽しもうと単線のローカル列車を選んだ。。右手には襲いかかってきそうな1000メートル級の山々が迫り、左手には水を引いたばかりの田んぼに青々とした稲が風に揺られている。飯田駅があるエリアは小高い丘にあることから「丘の上」という愛称で呼ばれている通り、駅に近づくと車窓から街の様子が一望出来る。


駅前のメイン通りを歩くと、街が碁盤の目に整理されているのが分かる。その街並は、まるで1950年代のハリウッド映画によく見られるスモールタウンのようだ。山に囲まれたこの小さな街に、戦前の芝居小屋から続く映画館『飯田トキワ劇場』がある。「僕はここの四代目になるんですよ。創業したのは曾祖父(堀保麿氏)で『大松座』という芝居小屋から始まったんです」と語ってくれたのは現在、代表を務める堀秀麿氏。創業時の芝居小屋があったのは、通りを隔てた蒸気機関車が置いてある広場。昭和22年4月に発生した街の3分の2を焼き尽くした飯田の大火によって劇場は全焼してしまう。しかし、翌年の昭和23年12月には早くも現在の場所に『常盤劇場』と館名も新たに、木造二階建て客席数1000席(県内で5本の指に入る大劇場だ)の映画館を設立する。「最初は芝居も出来る大きなステージがあって、大映と新東宝の映画と芝居を両方やっていたんです。だから二階席は、両端が前方に迫り出した桟敷席となっていたのを覚えています」全盛期には、近隣の駒ヶ根市などに“アカホ映画劇場”、“赤穂キネマ”、“赤穂銀映”、“松川文化会館”、“阿島文化会館”の5館も経営しており、手広くやられていたようだ。

「映画だけをやるようになったのは昭和25年を過ぎてからで、そこから日活も加わりました」当時、カーボン式の映写室には映写技師が3人常駐しており、劇場前の自転車置き場には自転車番専門の人まで雇っていた。創業者が亡くなった昭和35年以降は一時期、東宝東部興行という東宝の子会社に運営を委託。その頃の東宝は、“若大将シリーズ”がヒットを続け、夏休みには特撮ものに多くの子供たちが押し寄せた。市内のお祭りにはゴジラの大きな作り物を神輿の上に乗せて担いでいたという。やがて日本映画も斜陽期を迎え、昭和45年には大劇場から『飯田常盤劇場1号館(250席)・2号館(150席)』2館体制で再スタートを図る。現在のビルとなったのは昭和62年。当初は165席の1号館のみで他はテナントに貸していたが、平成12年に3館体制となり東宝洋画系を中心に上映を続けている。「この当時、記憶に残っているのはやっぱり“タイタニック”の凄さですね。確か年末の封切り当初はあまり入らなかった。ボーンと伸びたのは2月を過ぎたあたりから…市内でやっていたのがウチだけでしたから、毎日全ての回が満席で土曜日なんて入れなかった。ネットなんて無い時代だから凄いよね?結局1年以上やりました」


先代のお母様が亡くなられて、事実上、劇場を切り盛りしていた秀麿氏が引き継ぐ事となったのは昨年の6月から。「昔に比べて市内に映画館が2館しかないでしょう?どうしても掛けられる作品も限られてしまう。配給会社の人だって封切り作品を大事にしたいから、掛けるからには1日何回上映して欲しいと…。それでも作品が重なって出来ない時もありますから難しいですよね」最近では大作や話題作だけではなく小品でも良質な作品も掛けるようにしているが、こうした単館系作品には地域性の違いが大きく表れると秀麿氏は感じている。「やはり、今やっている“彼らが本気で編む時は”みたいな映画だって、慣れていないためか、丁寧に映画の内容を伝えないと自発的に来てくれないんです」その分、その映画がピタリとハマれば飯田市内だけではなく伊那市や県外からも来てくれる。「先週やった“昨日の君とデートする”には、名古屋から毎週通って1日2回観て行く人もいました。ここは名古屋も商圏に入っているんだけど、名古屋で上映が終わった作品を追いかけてウチに来るみたいだね。印象深いのは、14年前にやった“チルソクの夏”で、日本中の映画館を追っかけていた上野樹里の熱心なファンがいましたよ。彼なんか、フィルム繋ぐ時にカットしたコマ数も言い当ててましたから(笑)」


平日はシニア層がメインで、中には殆どの作品を観にきてくれる常連さんもいるという。土日には若者の姿も結構多く見られる。「飯田は山に囲まれて交通の便が悪いから、外から来づらいと同様に外に出づらい街なんです。だから地元の人たちは、観たい映画はウチでやるのを待っていてくれるんです」それだけに飯田の人たちは外から来た人間に暖かい。昨年公開された御当地映画“orange オレンジ”も街を上げての協力体制が組まれた。勿論、先導したのは秀麿氏なのだが。高校の授業シーンでは飯田下伊那高校が全面協力してくれて、10人ほどの学生がエキストラで出演している。「校長先生が理解ある人だったので、それも課外授業としてのひとつだ…って(笑)」また観光協会でも色々な手配を代行してくれたそうだ。「こうやってみると、映画作りの根本って昔と何も変わらないんだよね。自分の住んでいる街でロケをやって映画の中に知っている場所が出て来ると嬉しいんですよ」

取材当日は朝からの雨も上がり、外は気持ち良く晴れ渡っていたのだが、意外なほど劇場は静まっていた。「この辺りの人たちは、5月の晴れた日なんて来ないよ」と笑う。「みんな農業をやっているからね、今は正に繁忙期で、天気の良い日はみんな田んぼに出ているんです」前述の通り、ここに来る飯田線の車窓から見える稲がとてもキレイだったが、5月は田植えの季節なのだ。「雨が降ると客足が伸びて、晴れると客足が鈍る…都会と逆なんです。仕事が出来ないと行くところが無くて映画を観に来てくれるので、土日に雨が降ると一番嬉しいですね」これこそ飯田市の映画館あるある…取材の前日は雨だったのでそこそこ入ったという。地域によって映画館を取り巻く環境は全然違うのだ。(2017年5月取材


【座席】 『1号館』140席/『2号館』90席/『3号館』40席 【音響】SRD-EX

【住所】長野県飯田市銀座5-2 【電話】0265-22-0742

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