京都から太秦のある嵯峨野線に乗って終点の園部へ向かう。車窓から見える雨に烟った嵯峨野の山を幾つも越え、更にそこから山陰本線と舞鶴線に乗り換えると日本海側にある東舞鶴という港町にたどり着く。もっと早い直通の快速もあるのだが、ゆっくりと景色を満喫したかったから、敢えてこの方法を選んだ。そして、駅からまっすぐ港の方角に歩くこと5分、丹後街道を渡ってすぐの場所に街の映画館『舞鶴八千代館』が建っている。海が近いからだろうか、涼しい風に混じって潮の薫りが仄かに感じる。開場1時間前、ロビーで掃除機をかけているのが支配人の野村正男氏だった。支配人自らお掃除されるんですね…とお聞きすると「身体が動く間は何でもやりますよ」と気さくな笑顔を見せる。この地で野村氏の祖父・鎌太郎氏が、ココを立ち上げたのは昭和13年のこと。客席数220席を有する木造の『舞鶴八千代館』は冷暖房完備で、2階は畳席となっており、左右には桟敷席が突き出していた。建物は昭和8年頃に完成しており、しばらくは“八千代館”という館名で、演芸や芝居などをやっていたが、山中貞夫監督の“河内山宗俊”から常設の映画館となり、専属の弁士もいたという。

「舞鶴は海軍の基地がありましたから、娯楽施設がこの辺に集中しており、祖父も最盛期には市内に3館の映画館を持っていました」海軍に所属していた鎌太郎氏は除隊後、故郷の愛知県に戻らず舞鶴で興行を始めた。「60歳から始めたので大変だったと思います。結局、祖父は10年くらいしかこの仕事を出来ませんでした」その短期間で“旭座(芝居小屋で後に映画館に転向)”、“旭キネマ”、“旭館”を立ち上げた。その跡を継いだ野村氏の父・正秋氏が、東宝・松竹・東映・大映・日活と契約。「4館あったおかげで、封切から二番館、三番館へ落としていくのも自前で出来ました」特に人気があったのは日活で“渡り鳥シリーズ”や石原裕次郎主演作が強かったという。当時はテケツ(チケット売場)にあった金庫に入場料が入り切らなくなって、リンゴ箱にお札をどんどん入れていた。「だから税務署からも睨まれてね…担当者が来て、入場券一枚ずつ検印を押して全てチェックしていました。税務署はしょっちゅう様子を見に来ていましたよ(笑)」正月には一日の入場者が倍の2000人も入ったため、2階の桟敷席に立見客が集中してしまい、その重みで支えていた柱が折れて床が落ちた事もあったという。「それはよく覚えています。大騒ぎになりましたから…それだけ反響がすごかったのです」

「まさに映画は娯楽の中心で、映画があったらそれで良かった。私は映画館の隣に自宅があったものですから子供の頃から映画は常に身近にあったんです。作品が切り替わるたび映画館に来る時代で、作品を選ぶとかっていう事じゃなく、やるものは何でも観ていた」という正に映画の黄金期である昭和30年代は、配給会社の売り込みも熾烈を極めたという。「自分とこの作品をを掛けて欲しいから、稼ぎ時の正月なんかは映画館の奪い合いですよ(笑)自宅に映画会社の営業が泊まって、正月の入りの状況を見て帰ったこともありましたよ」やがて映画の良き時代も次第に陰りを見せ始める。「東京オリンピックでカラーテレビが出た時ですわ。あれほど極端に入場者が落ちた事はないです。ほんまに映画館に来ていた人が来なくなったからね。そりゃもう何をやってもダメだったです」と野村氏は当時を振り返る。



観客の減少に伴い、昭和56年12月20日に木造の単独館から現在のビルに建て替えた。2階に大小2スクリーン、1階には当時としては珍しかった開店寿司のテナントが入っており、現在の2階へ上がる階段のところ(上部に劇場名のネオンサインが設置されているあたり)が映画館の入口だった。当時、映画が終わると、そのまま寿司屋に寄って食事をして帰るというパターンが出来ていたという。『八千代館1』は東宝に貸しており、『八千代館2』では日活ロマンポルノを上映していた。低迷する『舞鶴八千代館』にとって救世主となったのが、ピンク映画やポルノ映画…いわゆる成人映画だった。「本当はやりたくなかったんですけど、大映が潰れて日活もロマンポルノに路線変更して、映画会社も大きな変革が迫られていた時代でしたからね」設計の段階から小さい劇場は成人映画館と想定して作られた。「同じフロアで一般作とポルノをやるのは抵抗あらへんか?っていう話しをしとったんですけど、まずはやってみたらどうや…って事になって。最初の頃はたくさん来られましたけど、こういう田舎でポルノ観に来て顔見知りに合ったら気まずいから、それほど長続きしなかったね」

リニューアルオープンしてしばらく経った時、野村氏にとって忘れられない出来事が起こった。「こけら落としは、たのきんトリオの“グッドラックLOVE”と“レイダース失われたアーク”をやったのですが、その時の入りは大した事がなかったんです。新しくなったから大勢のお客さんが来てくれるだろうって思っていたんですけどね。やっぱり建て替えても作品が悪いと来んのかなぁ…って。それでコッチも油断しとったんです」毎年、正月に休みを取れない野村氏は1月15日、京都伏見のお稲荷さんへお参りに出かけていたという。「社員から、長蛇の列で大変な事になってる!と、連絡して来たんです」慌てて映画館に戻った野村氏が見たのは、薬師丸ひろ子主演の“セーラー服と機関銃”に出来た若者たちの列だった。「今でも忘れません…それもセカンドだったんですよ。天気も悪く、雪が降っているので、整理し切れんで、こんな田舎でも警備員付けました」この記録は未だに抜かれていない。野村氏が『舞鶴八千代館』を引き継いだのは、それから10年ほど経った頃…「私がこの道を選ぶ決心をした時に親父から、お前はもうこの仕事をするなって言われました」


「映画館なんて絶対にやるもんやない…ワシの時代で終わらせたらエエで、お前は違う事やれ」それは映画館の良い時代も悪い時代も全部見て来たお父様の親心だったのだろう。そのお父様が亡くなられた4年後、野村氏はある人に背中を押されて、やはり映画館を引き継ごうと決意を固める。「それが、私が44歳の時ですわ。それまでは、どっちつかずいうか…4年間どうするか悩んどったんですが、滋賀県の映画館主さんから、せっかく建物があるんやからやってみたらどうや!って言われたんです。あかんかったらやめたらええ事やから応援したる…その人から映画の事とか色々教えてもらいました」子供の頃からお父様の鞄持ちとして映画会社に連れられたおかげで顔見知りになってた事も大きな強みになった。「この業界は、いきなり、新しく映画館をやりますって名刺渡したからといって出来るもんやない。映画館と映画会社というのはビジネスというよりも人と人のつながりなんです。ルールを犯すとものすごいペナルティも食う…。親父がやってきた道があって、古くからの同業者の仲間が助けてくれたから今までやって来れたんです」

それから25年、近隣にシネコンが出来てから、最盛期には舞鶴市内に8館もあった映画館も次々と閉館していった。存続の後押しをしてくれた映画館もその波には抗えなかった。「シネコンの進出で、ガラッとこの業界は変わりました。仲間の映画館があった場所に行っても誰もいない。本当に寂しいもんですよ」このまま行ったら親父が残した映画館が無くなってしまう…そう思った野村氏は京都を中心に映画の製作・企画から配給など幅広く手掛けるシマフィルム(株)の代表である志摩敏樹氏に譲渡の話しを持ちかけた。


「私が生きとる間は街から映画館の灯は消したくなかったんです。娘も他の事をしていますから跡を継ぐ者もいないし、それやったら今のうちに誰かやってもらえる理解者がおったら…と。志摩社長にお会いしたら映画に対して情熱を持っておられる方だったので、そういう人であれば安心して任せられると思ったんです」その時、野村氏の胸中にあったのは、近所にあった映画館“浮島劇場”が閉館する時、オーナーから後を頼みます…と託された言葉だった。「ウチと2館…最後まで頑張って来た仲間だったんですけど、そこも後継者がいなくて、自分がおる間は続けいたい…と言ってたんですけど」

経営が移ってからも野村氏はそのまま支配人として残った。「映画館が残りさえすれば、私はそのまま身を引いても良かったんですけど、ココの事なら隅々まで知り尽くしているので、その経験を活かしてお手伝い出来るなら…と思ったんです」昔と違って街の様子も客層もガラリと変わってしまった。子供とシニアがメインの客層となった最近は、アニメと人間ドラマを両軸としたラインナップとなっている。休日になると友だちを連れ立った中高生の姿も見かけるが、働き盛りの20〜30代や子供の頃テレビ世代だった50代が、映画館に来なくなったと嘆く。それでも開場前にポスターの貼り替えをしていると、通りすがりのおじさんが、これいつからやるの?と従業員に尋ねてくる。住民の生活に映画がある…これが街の映画館の良さなのだ。「私も後どれくらいこんな事やっとれるかな…」と笑いながら野村氏は最後にこう続けた。「まぁ、映画館におらしてもらえたら、私がやれる間は何とか続けたいと思いますよ」こんな館主さんがいる限り街から映画の灯は消える事はないと思った。(2016年6月取材)


【座席】 『八千代1』156席/『八千代2』72席/『八千代3』77席 【音響】 『八千代1・3』SRD/『八千代2』SR

【住所】京都府舞鶴市字浜229 【電話】0773-62-3583


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