戦後間もない昭和21年4月3日、福岡市の中心部・中洲に1000席を有する洋画専門館『大洋映画劇場』は、“チャップリンの黄金狂時代”でオープンした。「日本が戦争に負けて焼け野原だったこの場所に何の経験も無かった私の祖父が映画館をやろうと言い出して始めたのです」と社長室の壁に掛かっている昔の写真を眺めながら語ってくれたのは三代目になる代表の岡部章蔵氏。その思い通り、わずか2週間で6万人を超える動員数を記録、戦後の福岡市民に明るい話題を提供した。元々建築業を営んでいた創業者の故・岡部重蔵氏は博多の地図を広げて映画館をやるにはどこが良いか…と選んだのが現在の場所だった。土地の所有者に“土地を貸して欲しい”と話を持ち掛けたところ、36人いる地権者の承諾を得たら…という条件を出されるも重蔵氏は全部まとめてしまったのだ。



「仕舞いには映画館も祖父が自ら設計して建てちゃったんですよ(笑)」それまでは興行の経験が無かった重蔵氏だったが、アメリカ最大手の映画協会セントラルと契約を結び、日本第一号館というキップを手に華々しいスタートを切る事となる。その結果、1年も経たない内に劇場運営も軌道に乗り始め、本格的に映画館事業で一本化。その後、博多も少しずつ復興し『大洋映画劇場』を中心に次々と映画館が軒を連ね“映画と言えば中洲”と言われる程、昭和20年代から30年代にかけて一大映画街にまで成長を遂げた。「前の道が電車通りで高い建物が無かったから当時はここから博多湾まで見渡せたそうですよ」というこの界隈には大手各社の直営館が建ち並び、どの劇場でも連日長蛇の列が出来ていたという。「まぁ、娯楽の中心が映画だった時代ですから…映画だけじゃなく昭和20年代には“ワールドニュース”というニュースフィルムの上映会も行なっていましたが、それにも多くのお客様が詰め掛けていたそうですから良き時代ですよね」その後、近隣にあった大映の直営館が建て直しをするためにコチラで大映作品の封切上映を行なう事となる。更に昭和27年12月3日には木造から現在の建物である鉄筋4階建ての複合ビルとしてリニューアルオープン。こけら落としには全国唯一の特別興行として“千羽鶴”を上映。主演の乙羽信子も舞台挨拶に来館し、劇場に入りきれない程の多くの観客が詰め掛けたという。中でも昭和31年1月3日は『大洋映画劇場』にとって忘れられない日となった。長谷川一夫主演による大映作品“銭形平次 まだら蛇”に1日で1万人以上の動員記を記録する快挙を成し遂げたのだ。






しばらく大映映画封切館として話題作を送り続けた『大洋映画劇場』だが、昭和33年に再び洋画専門館として再スタート(洋画転向第一弾は“大遠征軍”)を切る。また、4階にテナントとして入っていたキャバレーが撤退して『ニュー大洋』という新しい映画館を新設し、“吸血鬼ドラキュラ”などのB級色の強い作品を得意とした。その後、ハリウッドは超大作時代へと突入し、アメリカ映画の黄金期を迎える。当然の事ながらコチラの劇場でも“大脱走”公開時には那珂川大橋まで長蛇の列が出来、“史上最大の作戦”は半年のロングランヒットを記録した。そんな順風満帆だった頃を象徴するエピソードがある。ウォルト・ディズニーの実兄ロイ・ディズニー氏が来日された際、戦後初めてアメリカ映画を輸入し国際貢献に寄与したという功績を讃えるため真っ直ぐ博多を訪れ、重蔵氏に握手を求めたのだ。昭和50年代に入り映画産業も低迷を続け、『ニュー大洋』はピンク映画の上映もしていたが、昭和52年ジョン・ギラーミン版“キングコング”の拡大公開が行われたのを境に本格的な洋画興行に乗り出す。

「やはり当時のハリウッドは勢いがありましたから、劇場の動員記録を塗り替えた作品として思い出深いのは何と言っても16万人以上を記録した“E.T.”です。近隣にあった“ピカデリー”でも上映していたにも関わらず、チケットを買うお客さんと入場を待つお客さんで劇場の前が大混雑してしまいまして…毎日、朝8時からスタートしていても全ての回が満席状態でしたよ」と岡部社長は、ちょうど劇場の仕事に携わり始めた当時の混乱ぶりを振り返る。地下鉄中洲川端駅出口の前という交通の便から、現在の客層は車を使わない50代以上の女性が中心となっており、若い頃おじいさんとデートで訪れたおばあさんがお孫さんと共に映画観賞される姿も…。1階でチケットを購入してらせん状の階段を2階に上がるとヨーロピアンムードが漂うクラシカルなイメージのロビーが広がっている。スクリーン1は古き良き時代の映画館の風格と気品に溢れた場内となっており、真紅のシートとゆとりのあるスタジアム形式の開放感溢れる空間(当初500席あったシートを300席まで減らしただけにゆとりについては折り紙つき)は映画を観る事が特別だったあの頃を思い出させてくれる。









エレベーターで4階に上がると、まず目に飛び込むのはジェームズ・ディーンとオードリー・ヘップバーンの姿を型どった椅子。かつて『ニュー大洋』だったフロアを3つのスクリーンに分割したロビーはアメリカンテイストのPOPな作りとなっており、ポップコーンマシーンから漂う甘いバターの薫りが食欲をそそり、マチネーでB級ホラーを観たくなる。スクリーン2から4の場内はそれぞれ個性的なデザインとなっており、適度な広さの空間がまるでプライベートシアターのように居心地が良い。そしてもうひとつ特筆すべきなのは1階にあるシネマカフェ。入口のチケットカウンター奥にある喫茶スペースは外から直接入店する事も可能。元々、待合い用の空間だったスペースを10年前からカフェにしたところ映画の待ち時間に利用される方が増えはじめ、平日の昼時には近隣の会社員も訪れているという。クラシカルな店内で、観賞後に映画の余韻に浸りつつパンフレットを開くと新たな感動が生まれてくるだろう。10年前、近くにあったデパートの閉店とキャナルシティの開業によって人の流れがガラリと変わってしまった中洲界隈。かつては映画の街として栄えていた周辺も現在は夜の街として酒場やもつ焼屋が数多く建ち並んでいる。



「以前は初売りのお客さんで賑わっていましたが、今では正月なんか寂しいものですよ」と語る岡部社長。それでも通りを歩いていると館名が掲げられた重厚な建物は中洲のシンボルとして目に留まる。それは戦後の混乱期から博多ッ子に夢と希望を送り続けてきた娯楽の殿堂という風格の表れだ。現在でも『大洋映画劇場』では本編の上映前に流すマナーフィルムで「博多の人の笑顔が見たい」という、創業者が常日頃から口にしていた言葉を投影しているという。それは、敗戦で焦土と化した故郷・博多の街に立ち、絶望感の中で行き交う人々の疲れ切った表情を見た重蔵氏が「映画館を建てよう!」と決意した初心を今も忘れずに継続されている事を意味する。映画ならば、きっと人々に夢や希望を与えられると信じて、興行の経験が無い中で始めた重蔵氏の思いはオープニング作品“チャップリンの黄金狂時代”の大ヒットという形で現れたのだ。そして、時代は変わっても映画を観て感動して帰られるお客様がいる限り創業者の精神は受け継がれて行くのだ。(2011年9月取材)





【座席】 『スクリーン1』301席/『スクリーン2』150席/『スクリーン3』85席/『スクリーン4』60席 【音響】 DTS・SRD

【住所】福岡県福岡市博多区中洲4-6-18 【電話】092-291-4058


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