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今、日本各地で街が変わりつつある。駅前の再開発…老朽化した建物が壊され、区画ごと新しいものに差し替えられる。そのため、子供の頃に見た光景は写真の中でしか存在せず、どの街に行っても同じようなビルが並び、自分がどこにいるのかすら思い出せなくなっている。その変化の波が一番始めに訪れたのは、各々の街にあった映画街という風景だ。数十年前、大型商業施設の増加に伴いシネマコンプレックスが国内に増え始めた頃から所謂、単独館が減少の一途を辿っている。同時に、商店街は軒並みシャッター通りと化し、ゴーストタウンのような街があちこちに出現している。そんな中、昔と変わらない活気ある商店街と映画館が残っている場所がある。JR静岡駅から呉服町通りを真っ直ぐ歩く事7〜8分…休日ともなると若者からお年寄り、家族連れと、幅広い層の人々で溢れかえる“七間町通り”。戦後、静岡随一の大商店街となり映画ブームと供に10館以上もの映画館が軒を連ねる映画街としても栄えてきた。その姿は今も変わらず、いつの頃からか、この通りを『七ぶらシネマ通り』と呼ぶようになった。
最盛期、“七間町通り”にあった映画館の数は9館…ところが現在は13館と、むしろ増えているのだ。「まだ市内にシネコンが進出していない事もあるのですが、静岡の人々は昔から、ゆったりと休日の過ごし方をされるのが性に合っているのでしょうね」と語るのは、この通りに8館の劇場を有する静活(株)で映画興行支配人を務めている佐藤選人氏。


天気の良い休日、人出の数が多いにも関わらず都内のような喧騒感はなく、何故かゆったりとした時の流れすら感じるのである。「あまりセコセコしない…これも静岡県民の特徴なんでしょうかね?(笑)」と言われる通り、人と街の気質がピッタリと当てはまっているからこそ、昔と変わらない風景が現存しているのかも知れない。『七ぶらシネマ通り—七間町通り』は札之辻から安倍川(あべかわ餅で有名な)へ走り、東海道へ繋がる場所であったため、昔から人が多く行き交う街の入り口でもあった。街の外れに位置していたため、活動写真や芝居小屋、寄席、飲食店、遊技場が軒を連らね、昼夜を問わず賑わいを見せていたという。


明治時代、この通りにあった“若竹座”では、リュミエール兄弟が開発したピタスコープを使って静岡で初めて映画の上映を行い、その後、寄席と活動写真を興行する小屋が増え始めた。そして遂に大正8年4月、静活(株)の前身である静岡活動写真(株)が、洋画専門館の“キネマ館”をオープン。元々、江崎新聞店という新聞の販売店を経営していた先代の江崎社長が映画という新しいメディアに目を向け、興行会社を設立。以来、静活(株)は、静岡市内の映画興行界におけるエポックメーキング的な役割を担ってきている。
『七ぶらシネマ通り』には、映画に関わる本物の機材を陳列したショーケースが設置されており、通りはさながら映画の博物館みたいだ。これは、商店街の人々が「“映画の街”として、ありきたりなアーケードではなく、映画の香りがする通りにしたい」という思いに、大船撮影所が賛同し、無償で機材を提供してくれた。中でも“君の名は”“二十四の瞳”で使用された撮影機は必見。通りを歩くだけで、映画の世界に入り込める…そんな夢のような商店街がある静岡がうらやましい。(取材:2006年6月)

参考文献「七間町百年の記録 七間町物語」(発行:七間町町内会)

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