もしかすると1980年から1990年代に日本で紹介された中国映画の名作が観られなくなる日が来るかも知れないな…なんて最近そんな不安がよぎる日が多くなった。ヨーロッパ映画を中心にプログラムされ、多くの女性ファンが訪れる渋谷のミニシアター「ル・シネマ」で、初めて上映された中国映画が、チェン・カイコー監督の『さらば、わが愛 覇王別姫』だった。

戦前から日本軍に占領されていた戦中を経て、戦後の国民党と共産党の内戦から文化大革命といった激動の時代を二人の京劇俳優の視点から描いた一大叙事詩である。タイトルにある「覇王別姫」は京劇の古典的名作で、映画はこの物語に擬えた結末を迎える。この3時間に及ぶ長尺の物語を一切飽きさせる事なく、観客の興味をスクリーンに繋ぎ止めた映像力と構成力が凄い。

冒頭、ひと気の無い体育館に入ってきた項羽と虞姫の衣装をまとった二人の京劇俳優が、係員から呼び止められるところから始まる。22年もの間、共演する事が出来なかった二人の名優に係員はこんな言葉を投げかける。「それもこれも四人組のせいだ」この四人組とは1966年に始まった中華人民共和国史上、最大の汚点とも言える文化大革命の中心人物たちを指す。そして体育館の照明を落としてスポットライトが点灯。真っ暗な体育館に照らされる青白い光に浮かび上がる二人のシルエットからのオープニングタイトル。この素晴らしい3分程のプロローグにカイコー監督の手だれた手腕を感じる。撮影を手掛けたのはカー・チャンウェイ。後年に公開されたチアン・ウェン監督の怪作『鬼が来た!』でもモノクロ映像から滲み出る人間の業を捉えたカメラワークが印象に残る。

この映画で描かれるのは、混迷する時代の中で、今そこにある善と悪だ。北京にある京劇の養成所に、娼婦の母親は貧しさのあまり息子のシャオを連れてくる。シャオは生まれながらに左手の指が6本あったため、「こんな手をした子供を誰が観に来る?」と入団を断られてしまう。衝撃的なのは踵を返した母親が、その指を包丁で切り落としてしまうシーンだ。それは生きるための非情な手段。その母親の行動を誰も責められない。養成所には同じ境遇の大勢の子供たちが厳しい環境の中で特訓を受けていた。忘れられないシーンがある。衝動的に仲間と脱走をしたシャオ(演じたイン・チーの美しさに目を見張る)が、他所から町に来ていた京劇を観劇した時に、素晴らしい演技を目にして涙を流すシーンだ。自分もああなりたいと、体罰を覚悟で再び劇団に戻る決意に感動した。

シャオはやがてティエイーという名で劇団の人気俳優となる。演じるのはレスリー・チャン。既に『男たちの挽歌』などで知られているレスリーが、本作でセクシャルマイノリティの役柄に初挑戦しており、女形姿の美しさには目を見張るものがあった。注目するのは、幼い頃から事あるごとに彼をかばってきた劇団のトップ俳優シャオロウを演じるチャン・フォンイーだ。日本ではあまり知られていないフォンイーは、本作で人間の脆さを見事に表現する素晴らしい演技を披露する。そしてもう一人。物語の鍵を握る娼婦チューシェンを演じる『紅いコーリャン』のコン・リーの演技が強く心に残る。彼女の娼館に足繁く通うフォンイーと、そんな彼女を疎ましく思うティエイーの三角関係が激動の時代を舞台に繰り広げられるのだから、エンターテイメントとしても面白くなる要素は充分だ。

私が驚いたのは日本軍に占領されていた戦中の描き方だ。中国映画であれば日本を悪役として描くのは当然だと思われたのだが、こちらの予想を大きく外して、統治する日本軍士官は京劇の伝統文化を理解していた。戦後、彼等の舞台を観劇していた国民党兵士が侮辱して乱闘となり、ティエイーは戦時中に日本軍の前で歌った罪で訴えられる。強制的に歌わされたのか?という裁判官からの問いに「自分から舞台に立った。日本軍は少なくとも国民党兵士のように舞台を妨害しなかった」と答える裁判シーンは日本人としては嬉しかったが、中国国内ではどのように受け止められていたのだろう。

それは文化大革命に関しても同様で、ここまであからさまに文化人を攻撃する様を描いた製作陣たちの信念と勇気に感服せざるを得ない。娼婦だった女性を妻にした罪を非道な紅衛兵たちの執拗な詰問によってフォンイーは、妻を愛していなかったと叫ぶシーンは胸が詰まる。ここで絶望の表情を浮かべるコン・リーのアップが忘れられない。そして彼女は失意の中で首を吊って自ら命を絶つ。戦争が終わり、せっかく日本の占領から解放されたというのに、何をしているのだこの国は…と怒りにも似た感情が沸き立つのを禁じ得ない。同じくコン・リーが文化大革命の時代を逞しく生きた母を演じたチャン・イーモウ監督の『活きる』も素晴らしかった。