渋谷の文化村通りにあったミニシアター「シネ・アミューズ ウエスト」で、写真家ラリー・クラークが監督した映画『KIDS』を観る。世界中から問題作(危ない作品)を積極的に上映する映画館の特徴を決定づけた作品と言って良いだろう。観終わって、何なんだ…この感覚は?と、捉えどころの無いモヤモヤした気分に、しばらく脱力感に苛まれた。酒、ドラッグ、セックスの日々を過ごすニューヨークのストリートキッズたちの生態を日常の風景として切り取るラリーの感性は、好き嫌いは別として認めざるを得ない。まだ背中のニキビも生々しい男の子と女の子の濃厚なキスシーンのアップが延々と続くファーストカット。愛の言葉を巧みに語らいながら、男の子は女の子を誘導して最後の一線を超える。そしてタイトルバックに流れるドラムを激しく連打するフォーク・インプロージョンによるノイジーな曲に、この先、映画が向かう狂気を予感する。

その男の子、テリーを演じるレオ・フィッツパトリックのリアルな言動や立ち振る舞いに、冷静に観ていられないザワザワした感覚が湧いてくる。そして、行為が終わったテリーが外に出ると、待っていた親友のキャスパーに彼女とのセックスがどうだったか事細かに話す。相手が12歳だったという事実に驚く間も与えず、実に不愉快な会話を二人は交わす。この映画の脚本を書いたハーモニー・コリンは、当時、高校生。正真正銘のストリートキッズだったという彼の脚本に出てくるキッズたちの言葉は、現実に彼らが交されるものであり、思考であることに驚く。

狭いアパートの一室に、仲間と集まって、ビールを飲みマリファナを回しながらセックスの話しで盛り上がる。男の言葉と女の子それぞれのグループを交互に映し出す構成の見事さ。そんな中で女の子たちの会話にHIVの話題があがる。映画が作られた1990年代はエイズが世界に広がり100万人の感染者が発生していた頃。脅威に感じながらもまだ他人ごとにして間違った知識が未成年者に蔓延していた。男の子グループの一人が言うセリフに当時の認識を見る。「子供がエイズに感染したなんて話は聞いたことがない。誰かがでっち上げた嘘に決まっている」と。そしてもう一人が誇らしげに言う「どうせ死ぬならガンガンやるぞ」。当時のアメリカはパニックを起こし、HIV予防運動としてコンドームが若者たちに配られた。その半年後…男の子たちが出した結論は、コンドームなんか使わずに「安全なのはバージン狙いだ」と広言していたという現実だ。

テリーと一度だけセックスをしたがためにHIVに感染してしまう女の子ジェニーを演じたクロエ・セヴィニーが実にイイ。友人に付き添って検査に行ったついでに何の気なしに検査しただけなのに、複数人の男とセックスしている友人が陰性だったのに、たった一人…初めての相手がテリーであったがために陽性となった不合理に絶望するジェニー。友人は「何とかなるよ」と慰めるが、何とかならない事なんて二人はよく理解している。それでもジェニーは、その事実をテリーに伝えるため、彼の行く先々を探し回る。彼を見つけたところでどうするのかは知る由もない。多分、彼女自身どうするのかを考えていないだろう。両者は、感染した側・させられた側に分けられるのではなく表裏一体として描かれる

この頃はエイズを題材にした映画がたくさん作られた。本作と対局にあるのがエイズになったバイセクシャルの男性と恋に落ちた女性の苦悩を描くフランス映画『野性の夜に』やエイズが発覚して不当解雇されたゲイの弁護士が人権のために戦う法廷劇『フィラデルフィア』だ。両者共にエイズになった主人公が病気に対してどう向き合うか…エイズという新しい病原を通じて、人間の尊厳を試される映画だった。しかし『KIDS』は、エイズが物語の中心にいながらも、やがて彼らのアイデンティティを崩壊させるかも知れないクライシスの一要因でしかない。怖いのは自分がHIV保菌者である事を知らずに、友人の妹をものにしようとパーティーに参加しているテリーだ。

ここでひとつの疑問が生じた。だとしても…仮にテリーが感染を知ったとしても女の子とのセックスは止めたであろうか?ここで先に言っていた仲間の男の子のセリフを思い出す。エイズ蔓延という世界的な事象の前に、自分は何が出来るのかを考えても仕方ない…なす術もなく身を任せるしかないと開き直ったとしても、そんな彼を誰が責められよう。世界を覆うウイルスによって世代間の分断を嫌と言うほど目の前にしてきた近年、25年前に観た時の『KIDS』に対する捉え方と、明らかに変わったのも事実。