横浜の黄金町にある名画座時代の「シネマ・ジャック・アンド・ベティ」で、リドリー・スコット監督の『テルマ&ルイーズ』を観る。今でこそこの映画館はミニシアターとして一本立興行だが、当時は「ジャック」が邦画、「ベティ」が洋画の二本立興行のムーブオーバー館で一般1300円前後で観賞出来た。お目当てはむしろ同時上映の『シザーハンズ』だったが、『テルマ&ルイーズ』の方が俄然お気に入りとなってしまったという典型的な嬉しい誤算で、賛否両論があったラストも爽快で、エンドロールが流れる暗い場内で小さく拍手を送っていた。

「1991年 キネマ旬報ベスト・テン」で第4位となったにも関わらず、当時の世間の評価は私としては不満足だった。日本のシネマコンプレックス上陸前夜の1992年に公開された女性のバディ映画は時代が早過ぎたのか?評論家の皆さんには大いに受けていたのだが、男性の一般ファンに今ひとつ支持されていなかった感じがした。ダイナーでウエイトレスをしている姉御肌のルイーズと、専業主婦で他人に依存するテルマが旅先で起こした事件をキッカケに逃亡を余儀なくされるロードムービー。夕食に何を食べたいかと聞いても、まともに取り合ってくれないモラハラ亭主に、テルマは旅行に行く事すら言えないまま当日を迎える。そんな性格が正反対の二人が、予期せぬ事態に不本意な行動を余儀なくされながらも互いにフォローし合いながら旅を続ける。

主役の二人、ルイーズ役のスーザン・サランドンとテルマ役のジーナ・デイビスの後半に見せるキレッキレぶりは、『ビッグバッドママ』のアンジー・ディッキンソンあるいは『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイを彷彿とさせて実にカッコイイ。見どころは、今まで男性に依存してばかりで、自分では何も決められなかったテルマが、土壇場でルイーズをも驚かせる大胆な行動に移るところ。ヒッチハイカーに有り金全てを持って行かれた彼女が手際よく強盗をやってのけるシーンは痺れた。そう言えば監督のリドリー・スコットは『エイリアン』でもシガニー・ウィーバー演じる航海士が、ラストは独りでモンスターに戦いを挑むという極限状態で強くなる女性を描いていたのを思い出す。

旅が始まって早々に立ち寄ったカントリーバーで事件が起こる。夫から離れて解放感に浸るテルマの無防備過ぎる行動に感じる観客の不安は的中して、声を掛けられた男のダンスの誘いに乗って酔いつぶれた彼女はレイプされかけてしまう。寸前でルイーズに救けられるものの、男が発したひと言に逆上してルイーズは男を撃ち殺す。後から来た警察にウエイトレスは「殺されて当然の男」と証言をする一方で、観客の男たちはこう思ったに違いない「テルマにもスキがあった」と。リドリーは敢えて、そう観客に思わせるような確信犯的な描き方をしているのだ。それが、物語が進むにつれ、そうした考え方は長年男にとって、都合の良い解釈であった事を思い知らされる。

ところが、またしてもヒッチハイクの若者に騙され有り金残らず持ち逃げさたテルマが激変する中盤から物語のテンポが良くなり、一気にラストまで緩急自在のスピード感で、二人を取り巻く事態が矢継ぎ早に展開され、俄然面白くなる。「一文なしでこれからどうするの?」と責めるルイーズに、開き直ったテルマが銃を片手にドラックストアで、まるで買い物をするように強盗を働いてしまう小気味良さ。時にはルイーズも慌てるような大胆な行動を起こしてしまう前半との対比が面白い。そして、二人がニューメキシコの砂漠をサンダーバードで爆走する爽快感溢れる映像美。撮影監督のエイドリアン・ヒドルによる青みがかった赤土の砂漠と抜けるような青空の風景映像は感涙ものだ。

90年代は音楽の使い方にも変化が訪れていた時代でもあり、劇中の映像イメージに合った既成の楽曲を用いたコンピュレーションものが主流となっていた。以降の映画と言えば『フィーリングミネソタ』とか『パルプフィクション』が思い出される。本作ではメインの音楽をハンス・ジマーが手掛けているが、ところどころでグレン・フライやB・B・キングの既成の曲だったり、イギリス出身のハスキーボイスが印象的なマリアンヌ・フェイスフルが歌うバラードを主人公たちの逃避行シーンで使用するなど、サントラ盤CDは『イージーライダー』に並ぶ名盤となった。劇中で使用されている曲の内容について詳しくはパンフレットの中で音楽評論家の東郷かおる子氏が解説をされている。文中で述べられている「音楽に対するセンスの良さは、映像のセンスと共通している」は間違いない。