正直言ってあまりディレクターズカット版とか完全版とか特別編というものは好きではない。気に入った作品はカットされたシーンを含めて全部観たい…というのがファンの心情だろうが、やはりカットされたのは、それなりの理由がある。したがって『エクソシスト ディレクターズカット版』も好きではなかった。初公開時に映画製作会社との様々な制約の中で不本意ながらカットを余儀なくされた監督たちの思いは理解出来ない事も無いのだが往々にして作り手の思い込みが入り過ぎて客観性に欠ける作品は冗長でダラけてしまう。ウィリアム・フリードキン監督が、カットれたシーンを復活させたディレクターズカット版は、初公開時にカットされたシーンに追加撮影されたシーンを加えたせいで、かなり幼稚な作品に成り下がってしまった…という印象は否めない。とは言え、『恐怖の報酬』の完全版は素晴らしかったので、全てを否定するものではない。

1974年に公開された当時、日本人の熱狂ぶりは半端ではなかった。公開前からオカルトブームを巻き起こして映画館には長い行列が出来た。小学生の僕が両親と祖母の4人揃って行った初めての映画で、初めて指定席で観た映画だった。それまでオカルトなんて言葉は日本には存在せず、四谷怪談や化け猫映画といった怪談映画で怖がっていた小学生の僕にとって『エクソシスト』に出てくる少女に取り憑く悪魔は、明らかにそれまでのお化けとは怖さの次元が違っていた。子供心にも怖さに品格を感じさせる…情緒的に怖がらせてくれる作品だったので、その後のスプラッターやスラッシャー映画のように音で怖がらせる下品さは無くオカルト映画の美学に感心したものだ。

オープニングは当初抱いていた印象と異なり、中東イラクで遺跡を発掘するシーンから始まる。マックス・フォン・シドー演じる初老の神父メリンと夕暮れに立つ発掘された邪神パズズの石像が対峙するローアングルで捉えた冒頭シーンを撮影したビリー・ウィリアムズによる映像の力強さ…鳥肌級の美しさだ。その後も『風とライオン』や『ガンジー』でも美しい中東やインドの風景を捉えていた。場面がワシントンのジョージタウンに切り替わり撮影をオーエン・ロイズマンにバトンタッチされると、砂埃舞うイラクの夕景からアンバーな街の風景に、すっかりこの映画に引き込まれてしまった。ロイズマンは『フレンチ・コネクション』や『コンドル』など都会の荒涼とした雰囲気を的確に捉えるのを得意とするカメラマンだけあって、舞台となるジョージタウンを人間味のない無機質な街として表現している。

リンダ・ブレア演じる主人公の少女レーガンはある日を境に奇行を繰り返すようになる。母親で女優のエレン・バーンステイン演じるクリスが主催するホームパーティーに招かれた宇宙飛行士に、パジャマ姿で現れて「お前は宇宙で死ぬ」と言い失禁するシーンはショッキングだ。やがて彼女を取り巻く周辺で奇怪なことが起き始め、母親の仕事仲間の監督がレーガンの部屋から落ちて不可解な死を遂げてから物語は新たな展開を見せる。

その監督の死について聞き込みに来るキンダーマン刑事を演じるリー・J・コップがイイ。『十二人の怒れる男』で最後まで有罪を主張する裁判員である。映画ファンでクリスの映画について、あれが良かった…だのと嬉しそうに語り、帰り際に照れながらサインを頼む姿は、緊張感溢れる劇中、唯一ホッとさせられるシーンだ。ジェーソン・ミラー演じるカラス神父の聞き込みでも「デビー・レイノルズとグルーチョ・マルクスが出ている『オセロ』の招待券があるので観に行きませんか?」と誘ったり(勿論、そんな映画は無い)、カラス神父をジョン・ガーフィールドに似ていると褒めていたのに、揶揄われると「本当はサル・ミネオに似ているよ」と嫌味を言ったり、映画ファンなら思わずニンマリさせられるセリフを繰り出す。残念ながら2年後に惜しくも亡くなってしまった。もし生きていたら『エクソシスト3』の主役だったはずなのに…。

ここに至るまでに描かれる病院での検査シーンがリアルで、脳神経の専門家からも高く評価されていた。病院の検査が陰性という結果が出ると、病院側から自己暗示療法として、悪魔に取り憑かれたと主張するレーガンに悪魔祓いを提案する。ここから俄然、映画は面白さに拍車をかける。次第に人知では計り知れない現象が起きてくるが、あくまでもそれらの超常現象の描写には品がある。少なくとも、壁に悪魔の顔を浮かび上がらせたり、スパイダーウォークと称するブリッジで階段降りて口から血をダラダラ流すなんて幼稚な描写を挿入するディレクターズカット版のような子供向けの描写とは雲泥の差だ。この点だけを取り上げてもオリジナル版の公開時に映画会社が下した客観的な編集判断は正しかった。やはり思い入れの強い監督判断は時として観客と乖離があるものかも知れない。

見えそうで見えない…気配だけで怖がらせるというのは日本人の好みでもあるのだが。中盤でカラス神父の母親との問題を絡めたり、深夜の地下鉄のホームで「俺はカソリックだから金を恵んでくれないか?」と手を差し出すホームレスの男を無視するカットを挿入したり、日常に潜む邪悪な影の方が実はゾッとしたりする。これが上手い。悪魔祓い本番のクライマックスで見せる汚物を吐き出したり、180度首を回転させるというショッキングな映像を見せても、悪魔は人間の弱い部分を突いてくる描写(拘束具姿のカラス神父の母親がベッドの上に座っているシーンはゾッとする)において、ギリギリの品位を保っているのがフリードキン監督のテクニックだ。いよいよ悪魔との対決の時を迎えたメリン神父が霧の中を邸宅の前に佇むシルエットに本作二度目の鳥肌が立った。