現代アメリカ最高の女流劇作家リリアン・ヘルマンは、ニューヨーク大学とコロンビア大学に学んだ20歳の時に執筆を始めた。処女作「子どもたちの時間」は、オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンが共演、ウィリアム・ワイラーが監督した『噂の二人』である。夫のダシール・ハメットもまたハードボイルド小説家として最高峰に位置しており、原作の『マルタの鷹』は、ハンフリー・ボガート主演で映画化され、ジョン・ヒューストン監督の代表作となる。

『ジュリア』はリリアンが1974年に出版した回顧録「ベンチメント」の中に収められた短編で幼友達ジュリアとの交流と反ナチ活動家となった彼女に協力した体験を綴った実話をフレッド・ジンネマン監督が映画化したものである。骨っぽい前作『ジャッカルの日』から一転、少女時代のリリカルな思い出と交錯するナチスの脅威に立ち向かう現在の友人とのギャップに戸惑う女流作家の胸中を描く。エンドロールが終り、場内が明るくなってから小さな武者振るいで我に返る。すごい…思わず口に出た。70歳を迎えたジンネマン渾身の『ジュリア』は、私にとって生涯忘れられぬ一作となった。

当初、プロデューサーのリチャード・ロスはシドニー・ポラックに監督を依頼していたが調整が付かず、ギリギリになってジンネマン監督にジョセフ・サージャントの脚本が送られてきた(フレッド・ジンネマン自伝より)。キャスティングでは既にジェーン・フォンダが決まっていたのだが、反ナチズム運動家のジュリアに関してはアメリカ人が演じるべきという大方の意見の中で、ジンネマンはヴァネッサ・レッドグレイヴを選んだ。撮影所は彼女の政治的信条から強く反対したというが、『わか命つかるとも』で彼女を起用したジンネマンは彼女こそジュリアにピッタリとして採用。ベルリンの食堂でリリアンと再会するシーンでの見すぼらしい髪型と片脚を失ったヴァネッサの演技は最高だった。その結果、見事この映画でアカデミー賞助演女優賞を獲得した(この時のスピーチはアカデミー賞史上最も物議を醸したが)。

裕福な家庭に育った幼い頃のジュリアは快活で聡明。一方のリリアンはそんな彼女に憧れを抱き傾倒する。頭脳も運動も思想も…あらゆる面で抜きん出ているジュリアに少しでも近づきたいとリリアンは思う。後半で「あなたは臆病を極度に嫌う性格から、時に能力以上の事に挑む癖がある」というジュリアの分析に表れているように、ある意味リリアンは劣等感に似たものを抱き続け、それが彼女にとっての原動力になったのではないだろうか?

ある日、ホテルのロビーで彼女の元にジュリアの知り合いを名乗る男から頼み事を伝えられる。ジュリアの仲間である反ナチ運動家に扮するのはマクシミリアン・シェル。『遠すぎた橋』ではナチスの将校を演じていたが本作は逆だ。彼はジュリアからの伝言を伝えるのに、ホテルの朝食をおごってくれないか?と頼む。皿を舐めるようにポーチ・ド・エッグとパンを平らげる姿が印象的だったが、当時のヨーロッパが、それだけ貧困に喘いでいた事がここからも分かる。

ジュリアからの伝言はモスクワ行きの経由地をベルリン経由に変えてお金を運んで欲しいというものだ。ユダヤ人の迫害を行なっていた当時のベルリンにユダヤ人系のリリアンが入る危険性は想像に足りるだろう。後半は長距離鉄道で大金を運ぶリリアンの行程がスリリングに描かれる。2等客室にいる他の乗客の不審な行動…監視されているのか?仲間なのか?緊張から段取りを忘れたリリアンに指示を促すところで味方だと分かるのだが、それでも列車のシーンは怖い。ドイツの検問所で彼女がバッグを落としただけでヒヤヒヤしてしまう。ちなみに向かい合って座る協力者の少女がイイ味を出していた。演じたのがエリザベス・モーテンセンという女優である事はパンフレットで確認したものの本作以外には出演作が見当たらず残念だ。

もうひとつこの映画ではリリアンとハメットの夫婦愛も描かれてる。ハメットを演じるジェイソン・ロバーツが秀逸で、言葉少なに執筆が進まず癇癪を起こすリリアンを優しく諭して、家の前の砂浜で焚火を囲んで夕食を取るシーンは最高。海で貝を取ってきたスコップを片手に飄々としたロバーツの佇まいに大作家の風格が滲み出ていた。印象的なエピソードかある。彼女が書き上げた渾身の作品を読んで「これは破いて捨てた方が良い」と一度ダメ出しをする。それからリリアンが書き直した修正版を読んだ彼は浜辺で待つ彼女の元に近づき「稀なる傑作だ」と称える。撮影監督ダグラス・スローカムによる雲が垂れ込めた海岸の映像も相まって素晴らしいシーンとなった。