旧約聖書でアダムとイヴの息子カインとアベルの兄弟が、人類で初めて殺人を犯したとされているが、人類で初めての殺人は更に遡る創世記で、武器を手にした類人猿が最初とされているのが、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』である。「人類の夜明け」というプロローグで、水場で水を飲んでいる類人猿の集団が、他所からやってきた集団から威嚇を受けて追い出される光景が繰り広げられる。激しく足を踏み鳴らし大声で吠える事で、相手より大きく見せることが「強さ」だった。

ある日、追い立てられた集団の一匹が骨を手に取る。最初は戯れに…やがて地面を叩く内に骨が物に当たった時の力に気付く。人類が武器を手にした瞬間だ。手に取った骨を振り下ろす類人猿のカットをキューブリックはスローモーションで捉える。まるで武器を手にして破壊する事に喜びのような恍惚の表情を浮かべるところは、後年に作った『時計じかけのオレンジ』で不良たちが棍棒で殴るシーンでも似たようなものを感じた。

次のカットで彼らは獲物を獲り、肉を食べる事を知り、ひもじさから解放される。そして、再び水飲み場に戻った集団は、皆が手に骨を持ち相手のリーダーを叩き殺してしまう。やはり進化の過程は争いから生まれるのか?一匹が武器となった骨を高く放り投げるとその骨が人工衛星に変わる見事なカット割に全身の毛が逆立つ。そしてシュトラウスの名曲「美しき青きドナウ」がインサートされると、曲に合わせて宇宙空間を漂う衛星や飛行船の映像に脱帽する。かつてこんなに美しく宇宙を描いた映画はあっただろうか。

そしてシークエンスは宇宙開発時代を迎えた人類に移る。物語は人類が宇宙に進出して久しい21世紀初頭、スペースシャトル型の宇宙船(側面にPANAMと表示されている)によって自由に月へ往来が出来る時代。映画をリバイバルで観た1970年代は2001年はまだ先と思っていたら、気づけばもう20年以上も過ぎていた。月で不審な電波を発する場所を掘っていたら人工的な造形物「モノリス」が発掘された。この「モノリス」は類人猿たちの前に現れた物と同じで、その「モノリス」に触れた時から人類の進歩が始まった。もしかすると「モノリス」を神に例えるならば、武器を手にした人類の堕落が始まったとも言える。

月の「モノリス」から発信される信号が木星に向けられている事から木星探査の任務が決まっていたディスカバリー号に、謎の信号調査という極秘任務が加わり、それが後に矛盾した指令によってコンピュータが誤作動による暴走を起こす悲劇を生むこととなる。広い船内をジョギングする船員をカメラはローアングルから延々と捉える。『シャイニング』でも使われていたキューブリック得意のカメラワークだ。その探査船は「HAL(ハル)9000」というコンピュータで完全制御されており、乗組員と人間のように会話をするのが不気味だ。広い船内の各所に設置されたカメラは「HAL」の目であり、絶えず見られているのかと思うと薄ら寒いものを覚える。また、冷たく響く「HAL」の声は印象的で、数多くの映画でパロディー化された。ちなみに「HAL」を一文字ずつずらすと「IBM」となる。

「モノリス」が何だったのか?誰が何のために紀元前の地球と21世紀の宇宙に置いたのか?明確な答えは出されないまま映画は終わる。映画製作にあたりまずはキューブリックとアーサー・C・クラークが共同執筆した小説まで持ち出して、モノリスに対する議論を高校時代に友人たちと交わしていたのが懐かしい。月の「モノリス」に関して私は長年、思い違いをしていた。「モノリス」から発せられていた信号は人類を木星へ誘導するものと思っていたが、先日、古本で購入した1988年4月に増刊された「月刊イメージフォーラム」のキューブリック特集号内で過去のインタビュー記事が掲載されており、その信号は宇宙に進出した人類が月に降り立った時に発信する謂わば「盗難警報器」のような物だと語っていた事に軽くショックを受けてしまった。つまり地球人の知能がファーストコンタクトをする値に達しているかを地球外生命体に試されていたわけだ。

当初、難解と言われていた木星に浮遊する「モノリス」を発見してからラストに至るまで、ナレーションを入れたり、冒頭では映画を解説する有識者のコメンタリーを組み込んでいたが、キューブリックはこれらを全て削除してしまった。案の定ラストに関して賛否両論の意見が出たが、キューブリックはインタビューで、モナリザの絵を例に挙げて、ナレーションや解説は絵の中に微笑んでいる理由を描き込む事と同じ…という実に明快な回答をしていた。つまり非言語的なレベルの事を扱う場合には、ある程度の曖昧さを大切にしたというわけだ。そこから観客は自らの解釈を探ることとなる。

ただ、「モノリス」の存在意味に対して…この疑問にある種の解答を提示したのが1984年にピーター・ハイアムズ監督による正統な続編『2010年』だった。続編の原作「2010年宇宙の旅」(以降3作の続編が刊行されている)をハイアムズがクラークと共同執筆した脚本は、連絡が途絶えたディスカバリー号の調査に木星へ向かうHALの設計者フロイド博士のチームが再び「モノリス」と対峙する。地球ではアメリカとソ連が核戦争直前の緊張状態の只中にあり、正に現在の情勢と付合する。ハイアムズはキューブリックよりも分かりやすく作られており、喉の奥につかえていた異物が少しだけ取れた気がした。

2018年に東京の京橋にある国内唯一の国立映画博物館「国立映画アーカイブ」で、70mmフィルムによる上映会が行われた。懐かしかったが、リバイバルで70mmで観ていたし、私の中では『2001年宇宙の旅』は観に行かなかった。それよりもシネラマだ。どこかオペラを上演する大劇場を使ってシネラマで上映してくれないだろうか?その時は入場料が何万円でも払って観に行く。絶対に行く。