映画館に貼っていたマイク・ニコルズ監督の『卒業』のポスターで、哀しげにうつむくヒロインに心を惹かれた私が、初めて女優のブロマイドを通信販売で購入したのは中学生1年の頃。それがキャサリン・ロスのサイン入り白黒ポートレートだった。私にとって彼女はアメリカン・ニューシネマの女神であり、瞳が大きくて(今で言う黒目がち…というやつ)若干タレ目気味なところに心を奪われた。サラリとしたロングヘアが初々しく純粋を絵に描いたような女優さんで、日本人のファンが多かったのもうなずける。映画雑誌の「スクリーン」で表紙を飾った率が多かったような気がするのは、決してひいき目だけではあるまい。当時27歳のキャサリン・ロスは『卒業』で青春映画のスターとなり、29歳の時に出演した『明日に向かって撃て!』で、その地位は確固たるものとなった。

背伸びをしていた中学生の私にとって、1960年代のイメージするアメリカは、サリンジャーとディランとニューシネマだった。とは言うものの「ライ麦畑でつかまえて」はロクすっほ読んでいないのだが…。そして『卒業』には、私が求めていたそんな「時代の空気感」が全て揃っていた。オープニングで流れるサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」と、クールなヘルベチカのタイトル、そして主人公ベンのファッションと無表情で空港の動く歩道に乗る姿に現代のアメリカを感じてしまったのだ。(恥ずかしながら、立ったまま移動するエスカレーターの歩道版がある事を知らなかった)

大学を優秀な成績で卒業しながらも将来をどうしたいのか…揺れ動く主人公ベンを演じるのは本作が映画デビューのダスティン・ホフマン。父親と共同経営者の妻ロビンソン夫人から誘惑され、戸惑いながらも不倫関係を続ける。逢瀬を重ねる毎にエスコートに慣れてくるところが面白い。夫人を演じるのは名優アン・バンクロフト。ヘレン・ケラーの『奇跡の人』でサリバン先生を演じてアカデミー主演女優賞を獲得した実力派だ。ベンを卒業祝いパーティーの席から連れ出して、自宅まで送らせる堂々した振る舞いは成熟した大人の女性そのもの。おどおどするベンに良心の呵責を与える隙も無くものの見事に落としてしまう。

上流中産階級の家庭で育ち、卒業記念にアルファロメオをプレゼントされ、庭のプールでウォーターマットに寝そべって日がな一日を過ごすベンにとって歳上の女性とのアヴァンチュールは人生最大の冒険だった。初めて夫人と関係を持った時のタフトホテルで、ベンは緊張のあまり、なかなか部屋を取る事が出来ない。ここで表現されているのはベンには一大事だが夫人にとっては通過点に過ぎない事だ。ホテルのバーで終始夫人にリードされっぱなしのベンの姿が笑いを誘う。

これから自分が行う行為に対する後めたさも手伝って、部屋を取るまでに周囲から不審に思われるような奇妙な言動を繰り返す。ホテルのフロントマン役で出演している脚本のバック・ヘンリーとのチグハグなやり取りが出色だった。結局、ベンはダブルの部屋を取らず、フロントマンに一人で泊まると見せかけるためシングルを取るのだが、このタフトホテルでの前半のスッタモンダが一番の見せ場となった。

それでも夫人と逢瀬を重ねるうちにベンの罪悪感も消え失せ、その月日の経過をスリーフィンガーピッキングの旋律が美しいアコースティックの名曲「四月になれば彼女は」をバックに表現するセンスがイイ。興味深いのはこのシーンでベンの自宅とホテルの部屋が繋がっている心象風景だ。プールに潜ったベンが水中から飛び出してマットに乗ると、ベッドの夫人に乗るカットに切り替わる。ここで表裏一体となるベンの背徳感を映像として観客に伝えるニコルズ監督の演出テクニックに思わず上手い!と唸った。

そんな時、夫人の娘エレインが大学の休みを利用してバークレーから帰ってくる。何も知らない両親から何度もベンは促される。「エレインをデートに誘ったら?」これ以上はぐらかし切れないとデートに誘うベンはワザと彼女に嫌われるような態度を取る。ここで見せるキャサリン・ロスの涙に感情が大きく揺さぶられる。ストリップバーで流す彼女の涙を捉えたのは大ベテラン撮影監督のロバート・サーティース。よくぞ彼女の表情からこの素晴らしい角度を見つけたものだと感服した。そして全編色調を抑えたカーティスの映像が本作を成功へ導いたのは間違いない。

母とベンとの特別な関係を知ったエレインは失意の中でバークレーへ戻る。彼女を追って大学近くの安下宿(ここの佇まいがイイ)に住むベン。カーティスが捉えるバークレーの街並みが美しい。改めて彼女とやり直したいというベンだが、エレインは近々結婚を控えている。これではなす術がない…と諦めるところだが、そこで有名なラストシーンになる。世間では教会から花嫁を奪うラストに、ロマンチックと高く評価されているが、月曜ロードショーで解説されていた荻昌弘氏は、飛び乗ったバスの中で二人が目を合わさないまま終焉を迎えるところに二人の行末を案じる…と言われていたコメントになるほどと思った。

ハリウッドの内幕をシニカルな笑いで描いたロバート・アルトマン監督の力作『ザ・プレイヤー』の有名な長い長いワンカットの冒頭で『卒業』の続編を売り込むシーンがあった。売り込みに来ていた脚本家がバック・ヘンリー本人というのが笑える。監督や俳優としても活躍されていたが、残念ながら2020年1月に亡くなった。続編は主人公が教会から花嫁を奪ってから25年後。夫婦となったエレンとベンのその後を描いているそうだ。しかも二人は脳卒中で身体が不自由となったロビンソン夫人を引き取っているという設定に、パート2が観たくなってしまったが、勿論これはフィクションの中のフィクション。やっぱり、音楽はサイモン&ガーファンクルなのだろうか?などとあれこれ思いを張り巡らせた