ラスト10分のために、この映画の主人公に対する苛立ちを2時間も我慢したと思えば安いものだ。ジャック・レモン演じる主人公C.C.バクスターはニューヨークにある社員数3万人の大保険会社の電算室に勤務するヒラ社員である。彼が働くビルの19階にある広大なフロアには3200台のデスクと150台もの計算機が設置される正に「3800万ドルの小道具」と呼ばれていたのも頷ける程のスケールで観客を圧倒する。戦前のオートメーション化された工場の歯車として扱われていた作業員を描いたコメディ『モダンタイムズ』と同様に、この『アパートの鍵貸します』は1960年代のアメリカ経済の中で会社組織の歯車として扱われていたサラリーマンの姿を笑いと悲哀を交えて描いている。出世のために浮気をする上司たちにホテル代わりに自分のアパートを主人公は貸す。スペアは作らせない。面倒でも鍵のやり取りを社内メール便を使い帰る時には玄関前のカーペットの下に返しておく。こうする事で上司たちに恩をインプットさせるという彼なりの打算がある。

彼の部屋の隣人に住む医者(名脇役のレイ・ウォルストンの飄々とした演技が可笑しくもあり安心させられる)は、まさか上司に部屋を時間貸ししているとは思っていないのでバクスターが毎晩、違う女性を部屋に誘っている色男と思っているのが笑える。1960年代のアメリカの大都市には日本のような連れ込み宿というのはなかったのだろうか…いくら出世のためとは言え、他人に自分のベッドを貸すなんてかなりの出世欲の持ち主だ。とにかく、アパートを提供する彼の狙い通り上司からの評価が上がり遂には出世する。アパートメントというシンプルな原題よりも『アパートの鍵貸します』という邦題の方がヒネリが効いていて、なかなか上手いネーミングだと思う。

そんな彼が会社のエレベーターガールに恋をする。演じるシャーリー・マクレーンの(今でいう)ベリーショートの髪型がとてもキュートだ。朝、満員のエレベーターで話をするのがバクスターにとって唯一の楽しみだったが、彼女はアパートを貸している部長と不倫をしていた。いつも小物の使い方が洒落ているビリー・ワイルダー監督は、ここでも化粧小物を効果的に使う。部長に部屋を貸した翌日に、女性が忘れたコンパクト(鏡が割れているのがポイント)を見つける。部長は彼女が怒って投げた時に割れたという。ある日、バクスターが帽子の位置を整えるため彼女のコンパクトを借りると鏡にヒビが入っており、そこで部長の不倫相手が彼女だったと知る。割れた鏡に驚愕するバクスターの表情が映る。相変わらずワイルダーのセンスの良さに惚れ惚れする。残酷だけど、実にスマートな洒落っ気のあるシーンとなった。パンフレットに書かれているジャック・レモンの「俺を喜劇俳優と呼ぶやつは遠慮なくブン殴る。俺の得意は悲劇なんだ」という言葉の意味がよく分かる。

妻と別れるつもりが部長には無い事に気づいた彼女が涙を拭きながら「女房待ちとの恋にマスカラは禁物」と言うセリフが秀逸。その後に彼女はバクスターの睡眠薬を飲んで自殺を図る。隣人の医者のおかげで一命を取り留めるが、バクスターは医者の奥さんから女性の敵だと責められてしまう。それでも彼は事の真相を明かさないのは、優しさからではなく、部長に迷惑をかける事を恐れたから。途中から彼女を看護する優しさも出世のためという下心と彼女への想いがない混ぜになって、そこからも出世に取り憑かれた男の悲哀を感じる。

この映画の好きなところは、セントラル・パークの近くにある古いアパートの2階にあるバクスターの部屋だ。適度な広さのリビングの中央に二人掛けのソファがあって、帰宅した彼はガスレンジで温めたディナープレートを食べながらソファでテレビを観る。これが高校時代に初めて観た時は何ともお洒落な生活に映り、一人暮らしをした時には、バクスターのような部屋にしようと思った。この部屋の装飾は『天井桟敷の人々』の美術を手掛けたアレキサンドル・トローネル。前述する保険会社の広いオフィスも彼の手によるもので、奥行き感を出すために机を奥に行くほど小さくして、奥にいる社員に扮するエキストラも子供や背の低い人を配するなど遠近法を巧みに使って大きく見せたという。

結局、部長は妻に不倫がバレて離婚する事となり彼女と元の鞘に収まる事となって、またアパートの鍵を貸して欲しいと頼まれる。出世をほのめかされて渋々鍵を渡すバクスター。でもそれは管理職専用のトイレの鍵で、彼はアパートを貸す事を断り会社を辞めると告げる。それを部長から聞いた彼女は彼のアパートへと走るシーンは、映画史に残るエンディングであった。