山口県の北部に位置する萩市は日本海に面した城下町で、明治維新の原動力となった地として歴史好きの観光客が多く訪れる。町をちょっと歩けば、吉田松陰や高杉晋作の生家や幕末から明治維新の歴史ある建物群を見ることが出来る。萩は三方を山に囲まれているため乗り入れている鉄道は山陰本線のみで、山陽方面から来る人にとっては、県庁所在地の山口市から出ているバス便も充実しており便利だ。今回は山口駅からJRバスを利用して1時間半かけて、山陰と山陽を隔てる山間の景色を楽しんだ。ありがたいことにバスは萩駅を経由するので、創業当時(大正14年)の姿を残す登録有形文化財の駅舎を見ることが出来た。現在は町の中心部に近い東萩駅が、バスの終点でもあるためスーツケースを抱えた多くの観光客がここで降りていた。


の中心を南北に伸びる萩城址線を歩くと、複合ビル「ヤング・プラザ・萩」が見える。そのビルの3階に2スクリーンの映画館『萩ツインシネマ』がある。昭和55年12月14日に『萩キラク』という館名でオープンした町の映画館だ。3階に上がるや否や、満面の笑みで歓迎してくれたのが『萩ツインシネマ』に無くてはならない館長(映画館の舵取りをする艦長という意味も込めている)柴田寿美子さんである。「ようこそ!どんどん見学して行って!」と、初めてお会いしたとは思えないほど気さくにお話ししてくれた。ロビーの至るところに映画館の歴史を見ることが出来る。昔の任侠映画のポスターが貼っていたり、本棚には昔のチラシをファイリングしたファイルケースが何冊も置いてあって映画ファンには感涙ものだ。更にその奥には年代物の映写機が何台も展示されており、さながら「昭和の博物館」だ。ロビーだけに留まらず『シネマ2』は「映画館の椅子の博物館」である。前列・中列・後列に3種類のシートが設置されており、色々試して自分の好みのシートを選べるのが楽しい。中でも前列と中列にある赤いシートは座面と背もたれが連動したリクライニングとなっている贅沢な作りだ。シネコン慣れしている若者は映画館のシートにこれだけ種類があることに驚くだろう。ブルーを基調とする『シネマ1』の場内で使用されているシートも座りやすく、現在の客席数は前方の座席が取り払われ当初の150席から35席となっている。


柴田さんから「今日まだ時間あります?もし良かったら映画観ていって下さい。この映画…誰も入らないのよ」とありがたいお言葉をいただいた。その映画は柴田さんがプロデュースと主演も兼ねている自主映画”さよなら萩ツインシネマ”だ。実は取材の目的のひとつにあるのは、正にその映画を観たいからだった。この映画を観ずして取材は出来ないと思っていたので、お言葉に甘えて、ありがたく観賞させていただいた。物語は『萩ツインシネマ』で毎年8月頃に開催されている「Ibasho映画祭」に応募作品が集まらないから今年で終わりにようと柴田館長が突然終了宣言した事に端を発して映画館も閉館する自体にまで発展するというもの。映画祭にエントリーした若手映画監督や家族を巻き込んで、映画館の存続というテーマをユーモアたっぷりに描いているコメディだ。この映画の感想を「まるで往年の神代辰巳監督の日活時代の映画みたいでした」と伝えたところ柴田さんは監督の名前を一生懸命メモっていらっしゃった。

劇中で閉幕の危機に陥いっている設定の「Ibasho映画祭」は、コロナ禍で誹謗中傷で亡くなる人が増えてきた時、誰かの居場所になれば…という思いで立ち上げた映画祭だ。2回目からは営業自粛で上映する機会が失われた若手映画監督のため、作品を募集して上映の場を提供しようとコンペ形式を採用。劇中では早いもの順でコンペを通過して上映される…と自虐的なエピソードで笑いを誘っていたが、実際にせっかく作った映画を上映してくれるところが無くなり、公開が打ち切られた経験がある人にとって、まさに救世主のような映画祭なのだ。勿論、映画祭は閉幕する事なく今も実施され、近日来年の告知をする予定だ。何よりも感動したのは映画館の館長がここまで体を張っている事だ。劇中で描かれていた、週3日の非常勤の家庭科の教師も週1の夜のバイトも全て事実。「自分でもよう働いている…と思ってます」と笑って言ってのける。ちなみに劇中『シアター1』に設置されているポールで柴田さんは名演技を見せる。


『萩ツインシネマ』の前身は、かつて市内にあった二つの映画館「永楽座」と「喜楽館」だ。大正8年に上五間町にあった芝居小屋から日活映画を上映する萩で初めての活動写真の常設館「永楽座」から始まり、大正13年に新設された松竹映画専門館の「巴城館」を「永楽座」の経営者が吸収合併して昭和2年に「喜楽館」という館名で帝国キネマの上映館として興行を始めた。昭和33年に「永楽座」は東映の封切館「萩東映」と館名を改めて、時代劇と任侠映画で多くのファンを獲得していた。映画産業が栄えていた頃は、萩市内で映画を観ると言えばこの2館という時代が続いていたが、高度経済成長期も過ぎた昭和40年代に入ると、映画館は斜陽産業と囁かれ始め、年を追うごとに入場者数は激減する。そこで当時、両館を経営していた西林直輝氏は一大決心をした。「喜楽館」「萩東映」を閉館して商業ビルを建てて、その中に2スクリーンの映画館『萩キラク』を入れるという計画を打ち出したのだ。それは正にシネコンの走りとも言える発想で、喫茶店やパブ等の飲食店とフラワーショップや舶来クセサリーの店が入る複合ビルは、当時としては目新しいファッショナブルなイメージで、物珍しさから多くの人が訪れた。その相乗効果から『萩キラク』の動員数も好調で、年間6万人近くの観客が来場したという。

しばらくは安定した動員数をキープしていたが、平成に入ると10分の1にまで激り、平成8年6月末から休館状態に陥ってしまった。赤字が続く映画館を助けようと「萩の映画館を守る会」が発足されて募金活動を行ったり、元市長の林秀宣氏が発起人となって出資を募ってくれたのだ。そこで集まった資金を元手に平成8年6月22日に株式会社ムービーボラトピアを設立。7月19日に館名を市民から公募した『萩ツインシネマ』に改めて再開する。ところが映画館の苦悩はそこで終わらなかった。やがて隣接する商圏にシネコンが次々と設立したため、またしても入場者数が激減してしまったのだ。平成16年のゴールデンウィークまでは何とか上映を続けたものの”火垂るの墓”と”クイール”を最後に閉館を余儀なくされた。ところが…ここで再び転機が訪れる。閉館から3ヵ月後にNPO法人「萩コミュニティシネマ」を設立したのだ。当時はまだNPO法人が一般的ではなかった時代で、その上、映画館の運営会社をNPO法人化する事例が無かったため、市役所の職員が申請方法などをアドバイスしてくれて、8月7日に映画館再開に辿り着いた。



しかし、映画館の再開を誰もが喜んでいたわけではなかった。穏便に閉館する方向で水面下で動いていた人たちから猛反発を食らい、存続派との間で対立していたのだ。柴田さんが『萩ツインシネマ』にボランティアとして加わったのはその年の正月興行からだった。「何も知らずにやって来た私は、両者の言い分も分かっておらず…大変な状態だった事は覚えています」何よりも驚いたのは映画館の帳簿を見た時だったという。前職は島根県庁の職員で農業を担当しており、帳簿を見ることが出来た柴田さんの目に映ったのは非常に厳しい経営内容だったのだ。「映画の事も知らない私がお金の事を問いただすと、”外からやって来た人間に言われる筋合いは無い!”と言われて…その時期が一番苦しかったです。何も知らずに火中の栗を拾いに入ったみたいなものですから」と当時を振り返る。「今から思えば、私が帳簿の数字がおかしいと言っても、誰も何がおかしいのかすら気づいていなかったのです」当時の理事から反感を買った柴田さんが相談したのが、理事長の高雄一寿氏だった。それから柴田さんは憧れの映画館との縁を切りたくないという一心で全理事に頭を下げて回った。「その時ですね…もう一度ここで働かせてもらおうと決意を固めたのは」そんな柴田さんが平成27年に館長を任されてから間もなく10年が経とうとしている。それは時には役員とぶつかり合いながらも映画館を立て直すため必死に取り組んで来た10年だ。島根県の農家で生まれ育ち、高校時代には映画館の前を通ることすら無かった環境で青春を過ごした柴田さんは、大学時代にバイト先の店長からのひと言が今でも心に残っているという。「私が”映画に1800円払って入るのバカバカしい”と言った時に”充実した人生の時間をわずかなお金で買える事が分からないなんてつまらない”って言われたんです」その時から映画館で映画を観る気持ちが大きく変わったという。


館長に就任以来、経営方針を見直したおかげで黒字を出せるまで回復したところに大事件が起こった。平成最後の年にデジタル映写機が壊れて上映が不可能となり休館を余儀なくされたのだ。元々耐久年数が過ぎていて、いつ壊れても不思議ではない状態だったため、遂にその時が来たか…という思いもあったという。「映画館の経営状況では新しい映写機を購入する事が出来ないので、私が映画館を閉める事になるだろうと思いました」と当時の複雑な心境を語ってくれた。しかし幸いにも柴田さんがその決断を選ぶには至らなかった。クラウドファンディングによって映写機を購入出来る目標額が集まったのだ。中には千円札を握りしめて窓口まで持って来てくれたお客様もいた。閉館も覚悟していた柴田さんだったが「そこで乗るか剃るかを決めなくてはならなかった。だから私は、乗る!って腹を決めました」そして『萩ツインシネマ』は1ヵ月程で再開することが出来た。

今年の8月18日に、長年柴田さんを支えてくれた高雄氏が71歳の若さで亡くなられた。高雄氏への想いを語る柴田さんは言葉を詰まらせる。「最後は戦友だったな…って。昔は高雄さんが作品を選んでいましたが、最後の方は私が勝手に何でもやっちゃって(笑)事後報告しても何でも私に任せてくれました」取材の最後に、柴田さんにとって『萩ツインシネマ』は、どんな存在でしたか?という質問を投げかけようと思ったが…やめた。ひと言で集約するなんて無理だと思ったからだ。強いていうならば、映画の待ち時間にロビーを歩き回れば、館内のあちこちに柴田さんの思いを見る事が出来る。近くを通ったら受付にいるスタッフに見学をお願いすれば、快く応じてくれるので是非立ち寄ってもらいたい。(2023年11月取材)


【座席】『シネマ1』35席/『シネマ2』130席 【音響】SRD

【住所】山口県萩市東田町18-4 ヤングプラザ萩3F 【電話】0838-21-5510

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