瀬戸内海の東側に位置する本州と四国を結ぶ淡路島。温暖な気候に恵まれ、東は大阪湾、西は播磨灘に面した豊かな漁場として知られる海産物の産地だ。明石市の舞子から高速バスで1時間ほど…早朝の明石海峡大橋を渡って淡路島へ向かう。車窓から乳白色の初夏の海が空と一体となった幻想的な風景が見える。農業が盛んな島の内陸に入ると、瀬戸内特有の段々畑や棚田が広がる。近年は島の特産である玉ねぎや牛肉を使った淡路島カレーが有名だ。間もなくバスは、島の中央部に位置する洲本市に入り、漁港の近くにある洲本バスセンターに着く。海から吹いてくる潮風が心地良い。ここが街の中心部となっており、整理された区画には行政や医療機関の施設が建ち並ぶ。ぶらぶら歩いていると、昔ながらの懐かしい佇まいの商店街に出くわす。アーケードの商店街は結構長く、横道には古民家を利用した小さなお店が軒を連ねる“レトロこみち”と名付けられた路地が走る。

そんな“こみち”の一角に突然オレンジ色も鮮やかな外観の建物が目に飛び込んでくる。島に唯一残る映画館『洲本オリオン』だ。開場まで間があるというのに劇場前には何組かの親子連れが待っている。そう…今日は久しぶりに映画がココで掛かるのだ。セカンド上映にも関わらず、これから始まる”美女と野獣”を前に子供たちのワクワク感が伝わってくる。『洲本オリオン』の前身は『昭和館』という館名で浄瑠璃を上演していた戦前に遡る。創業者の故・野口宇一氏が明治時代に北海道の開拓に失敗して、その後、大阪で行商を行ったところに端を発する。その時に浪花節の師匠と知り合いになり、明治の終わりから大正の始めに興行師として全国を回っていた。やがて、子供が生まれたのを機に地元の淡路島に戻って小屋を持ったのが、そもそもの始まりという。「それ以来、代々、家族で経営している劇場なのですが、そんな感じで始めたから、正式な設立日は分からないんですよ」と笑うのは四代目館主の野口仁氏。戦時中は『福助座』と改名して芝居小屋に転身。映画を上映するようになったのは戦後すぐだったという。「映画も常設館ではなくお芝居と交互にやっていて館名も『福助座』のままだったのですが、掛けている映画がワーナーや東宝東和などの洋画でしょう?さすがに洋画専門館に、その名前は無いだろう(笑)ということで、昭和26年くらいに劇場の名前を公募して決まったんです」当時、市内には東映や松竹の封切館など7館もの映画館があり、邦画中心だった状況の中で洋画専門館という存在は珍しかった。その流れで、時には『洲本オリオン』が洋画を配給会社から買い付けて島内にある映画館に回すという洋画の2次卸的な事も行っていたそうだ。


ちなみに洲本出身で映画好きとして知られている故・阿久悠氏も学生の頃に通われていたらしく、後日、回想録で”荒野の決闘”をコチラで観た思い出を綴っている。最盛期には何人も映写技師を雇い、更には自転車置き場専従の番人までいたという。「当時、自転車は高級品だったので、自転車を預かって駐車料金をいただいて引き換え札を渡していたそうですね」元々芝居小屋だったことから、木造二階建ての館内は、一階は枡席、二階は畳敷きとなっており、ロビーという空間は存在せず、木戸銭を払ったらすぐ場内という縦長の作りになっていた。「昔は奈落があったり、役者が寝泊まりする楽屋や大部屋があったりして、複雑な迷路みたいだったと子供ながらに記憶しています」映画をやるようになって座席を設置して、二階席と合わせて250席になった。

「この辺りは今でこそ寂れていますけど、当時は関西でも指折りの商店街で、関西イチの売上げだった大きな本屋とか、近所にある服屋のジーンズは人気があって、商店街全体が栄えていたそうです」全島内でも最大規模の商店街には、お正月やお盆には全島から人が集まり、通りから商店街の先の方が人だかりで見えないほどだったという。買い物を終えると、その足で映画を観に来る…というのがお決まりのコースだった時代、当たり前のように映画館にも多くの観客が詰めかけたわけだ。しかし、しばらく順調だった映画も斜陽期に入った昭和40年代には客足が減少。ジョイパックフィルムなどの洋物ピンク映画を掛けて危機を乗り切った事もあった。しかし昭和40年代後半には社会現象を巻き起こしたふたつの作品、”燃えよ!ドラゴン”と”エマニエル夫人”の大ヒットによって再び劇場は息を吹き返した。「僕が小学校の低学年の頃でしたけど、押し寄せるお客さんの数がすごかったのを覚えています」毎回立ち見で入り切らないほどの満席が続き、挙げ句に通路に新聞紙を敷いて観ていたという。


「祖父が亡くなってから私の母親が18歳くらいの時に映画館を引き継ぐ事になって、漁師だった私の父と結婚して一緒に映画館を切り盛りしたそうです」古い建物を取り壊して、現在の建物となった昭和50年からは邦画も上映するようになる。消防法の関係で通りからセットバックしなくてはならず、建物自体を小さくせざるを得なくなり客席も99席にまで減ってしまった。「それまで創業時の建物でしたからトイレが汲取式で、その臭いがどうしても我慢出来ないと、父が建て替えを決めたのですが…やはり劇場が小さくなった分、お客さんが溢れてしまったので、当の本人は嫌だったらしいです」

建て替えてから現在に至るまで、補修はしているが基本的には当時のまま。ロビーの壁も場内の扉も貴重な年代物だ。ロビーで待っていると場内の音がダダ漏れなのも昔の映画館ならではのご愛嬌。おかげで否が応でも期待が高まってしまうのだ。「昔の場内は騒がしくてね…。つまらない映画の時なんか、売店で売ってたラムネの瓶を割って取り出したビー玉をスクリーンに向けて投げつける悪い奴らが結構いました(笑)そんな事が頻繁に起こるもんだから、スクリーンを張り替える職人さんも手馴れたもんで、ビー玉の穴が開いたところを塞いで銀の塗料を塗ってお終い。今なら全取っ替えで何十万円も掛かるところだけど、当時は安くやってくれたみたいです」と古き良き時代を振り返る。高校生から30年以上も映写機を回していた野口氏が、正式に映画館を引き継いだのは、昨年、代表を務めていたお父様が亡くなってから。それから間もなくして熊切和嘉監督作品”夏の終わり”で『洲本オリオン座』』は、休館を発表する。


「特に長く休むつもりではなく、親父が倒れてから殆ど一人でしたから、ここらで体勢を整えるまでちょっと休もうかな…という程度の気持ちだったのですがね。最後の映画の題名が題名なだけに思いのほか反響が多くて驚きました。閉館と勘違いされている方もいて(笑)。いずれにしても今までのように毎日上映するのではなく不定期に上映したいなと考えています」現在は、地元でロケを行ったご当地映画を上映したり、平日は貸し館として音楽イベントや自主上映会などに提供されている。ちなみに”夏の終わり”も淡路島のご当地映画。撮影中は、監督やスタッフに映画館の倉庫を宿泊として提供していた。

「僕にとって映画館は、あって当たり前の存在。昔は場内に売店があって、しょっちゅう中でお菓子を食べながら映画を観ていました」幼少の時分からお客さんの姿を見続けて来た野口氏。「昔は休憩が無くずっと映画を掛けっぱなし。お客さんも途中から入って途中で出て行くのが当たり前でしたね」今、ここに来ている人たちは、正にその時代から映画館で映画を観る文化に馴染んでいる人たちだ。「ここで映画をやっているのは新しい客層を取り込むためではない」島の人口も3万人となった今、スクリーンに投影された映画を楽しめる人たちにこそ大切に観てもらいたい…と思いを述べる。だからホールや公民館からお呼びが掛かれば、島内どこでも出張映写技師として赴き、要望があれば配給会社との折衝も代行されている。実は、この上映会が好評で来年の2月までスケジュールが埋まっているそうだ。「高齢化が進んだ島だから映画館まで来れないならば、こちらから出向こう…と、僕が20代の頃からやっているんです。どうせ赤字になるなら、やりたいことやって納得して赤字になりますよ」という言葉が深く心に残った。(2017年7月取材)


【座席】 99席 【音響】DS・SR・DTS

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