JR中央線・阿佐ヶ谷駅を降りて北口に出る。南口に比べて、小ぢんまりとした駅前ロータリーと、数百メートルほどの路地に飲食店が肩寄せ合うように軒を連ねるスターロード商店会…決して規模を拡張せず品のあるたたずまいを何十年も守り続けた街だ。駅から路地を抜けて5分ほど歩いたところに長年通い続けた名画座“ラピュタ阿佐ヶ谷”がある。実はこれだけこの駅を利用していながら南口に行った事がない。何となく北口よりも栄えているのは知っているのだが、いつも映画のハシゴをして、途中、商店会の定食屋でご飯を食べて電車に乗る…思えば映画館と駅の往復だけだ。そのくせ時間があっても北口のアーケードをうろうろしては古本屋を覗いて…やっぱり南口には行かない。そんな偏った愛情を一方的に注ぐ北口に新しい映画館が出来た。2015年4月25日、“ラピュタ阿佐ヶ谷”のオーナー才谷遼氏が監督した“セシウムと少女”をこけら落しにオープンした『ユジク阿佐ヶ谷』だ。

「出来るだけ早く、完成したこの作品を上映したかったのですが、映画館がなかなか見つからず、そこで、試写室もあるアートアニメーションの小さな学校だったここを映画館にしてはどうか?って事になったんです」と語ってくれたのは、支配人を務める武井悠生さん。「都合良く劇場仕様になっている空間だったと言え、普通は採算を取れるのか考えてからやるはずなんですけど(笑)どうしても映画を公開したいという思いが一番先にあってスタートしたんです。どんどんミニシアターが閉館しているさなか普通やらないですよね」と笑う。とは言え、スタートから“セシウムと少女”は、ロングランとアンコール上映を行うほどの反響があった。ちなみに館名のユジクは、ロシアのアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインの代表作“霧の中のハリネズミ”に出て来るハリネズミの名前(ヨージックが少し訛って)から取っている。劇場のアチコチにいるハリネズミのイラストがまさにそのヨージックだ。「ここの学校を作るキッカケとなったのもノルシュテインさんの“日本にはアニメーションの学校がない”という言葉でした」才谷氏との親交も深く、現在、ノルシュテイン氏のドキュメンタリー映画を製作中である。


閑静な住宅地で目を惹くオレンジのファサード(そこにもヨージックが…)。階段を降りて行くと木の床と一枚板のベンチが印象的なホワイエがある。ガラスで仕切られたエントランスの奥にあるロビーは学校のスタジオだったスペース。壁の片側が特注の巨大な黒板となっており、黒板アート作家が特集が変わるたびに1日がかりで描く作品は圧巻だ(タイミングが合えば、制作過程を見る事も)。劇場にある小物や調度品は武井さんがセレクトしたもの。配置やレイアウトは他のスタッフと相談しながら決めているそうだ。受付では阿佐ヶ谷で大人気のお店ジェラテリアシンチェリータのジェラートが販売されており、場内に持ち込んで映画を観ながら(やや固めに冷えているおかげでゆっくり溶かしながら食べられるのがイイ)楽しめるのが嬉しいと評判だ。元試写室だった場内も段差がしっかり付いていてとても観易く、木の床も作品の雰囲気にマッチしている。

「女性が来やすく、子供から大人まで楽しめる作品を上映する映画館」というコンセプトでスタートした『ユジク阿佐ヶ谷』も間もなく2年目を迎えようとしている。上映作品を見ると女性向けの優しいトーンの作品が多い事に気づく。まだアニメーション専門のミニシアターと打ち出していた初期の“ラピュタ阿佐ヶ谷”のラインナップに似ている気もする。例えば、鎌仲ひとみ映画祭だったり、ムーミンアニメーションフェスティバルやヤン・シュヴァンクマイエル監督特集などなど…かなり感性の高い良質な作品がズラリと並ぶ。「本当のところ、この2年やって来た事を振り返ると…どんな作品をやったらイイんだろうって、探り探りやってきた感じです。当時はラピュタの姉妹館がもうひとつ出来たという目で、お客様も様子を見られていたのではないでしょうか?ハッキリしていたのは洋画をメインにしていきたいという事だけでした」どうしても上映のタイミングがムーヴオーバーが中心となってしまうため、そこに関連した旧作を一緒に掛けて特集を組むなど趣向を凝らしている。


しばらくブルーレイだけだった上映設備も昨年6月にDCPを導入。おかげで作品の幅も広がった。お客様の層も30〜40代の女性をメインとしつつ、休日ともなると学生や20代若者の姿が目立つ。今やっている作品に関連して、こういう楽しみ方もあるとか、この監督の過去作品にこういうのがあるとか…なるべく特集という形でまとめている。「興味を持ったらフラッと入っていただいて、スクリーンで映画を観るのはイイなぁって感じてもらいたいです」また、コチラの割引サービスにレイトショー友割りというものがある。ユジクらしさに溢れた何ともチャーミングなネーミングだが…「もっと友人や家族を誘って映画を観てもらいたい。該当する作品を2名以上で観賞すると割引になるので、友だちを映画に誘う口実になればイイな…と思います。映画を観終わってから話しが出来るのって映画館だからこそですから」先日、“レッドタートル ある島の物語”をレイトショーで観たが、学生風の若者がカップルや友だち同士で来ているのを見て何だか嬉しくなってしまった。

武井さんが一番印象に残っているのは、チェコアニメ特集をやった時という。「“クーキー”と“ひなぎく”を上映したのですが、チェコが大好きなお客様からも好評でした」ロビーではチェコのグッズを販売されたり、“ひなぎく”の上映時には、白い小さなテントをディプレイし、専門家を招いて主人公の少女たちが付ける花冠を作るワークショップを開催。こうしたイベントの企画や上映作品のセレクトは全て武井さんが一人で行っているというから驚く。「イベントも本当は毎月やりたいのですけど、どうしても宣伝や準備に時間が掛かるので出来ていないのが残念です」それでも以前やったサイレントの上映会で、この映画だったら絶対に合うだろうと思ってお願いしたアーチストに音楽をつけてもらったところ、多くのお客様が感動してくれたという。「その時、こうした新しい価値観を少しずつ提案したいと思いました。今はネットやレンタルで簡単に映画を見れる時代ですけど…映画館で映画を観た時、少しでも質が上がったと感じてもらいたいです。映画は映画館で観なきゃダメよねって理解している人は勿論ですけど、そこに気づいていない人たちにもっと来てもらいたいですね」(2017年3月取材)



【座席】 44席 【音響】デジタル7.1ch

【住所】東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-19 B1F 【電話】03-5327-3725

  本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street