鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ向かって朝の小町通りを歩く。多くの観光客が行き交う通りも晩夏の朝はさすがに人通りもまばらだ。まだ開店の準備をしている店を横目に、歩くこと10分そこそこ…もうすぐ鶴岡八幡宮という辺りで横道に入ってすぐのところに緑豊かな小高い山を背にした数寄屋造りの和風建築物『鎌倉市 川喜多映画記念館』がある。初めての人は、えっ、こんなところに映画記念館?と思われるかも知れないが、鎌倉はかつて日本屈指の映画の都だった。隣の大船駅には広大な敷地の松竹大船撮影所があり、小津安二郎監督の名作“東京物語”や渥美清の“男はつらいよ”はこの地で誕生した。いにしえの映画人たちが愛してやまなかった場所なのだ。そんな映画人の中に生涯映画を愛し、戦前から“自由を我等に”や“望郷”、そして戦後には、“天井桟敷の人々”を筆頭に“第三の男”や“禁じられた遊び”など、誰もが知っている多くの名作を日本に紹介した現・東宝東和の創設者であり、映画の発展に大きく貢献した川喜多長政・かしこ夫妻がいた。

平成22年4月1日に開館した『鎌倉市 川喜多映画記念館』は、川喜多夫妻が長年お住まいになられた旧宅の跡地に建てられた展示室・映像資料室・情報資料室から成る新旧国内外の映画を様々な角度で紹介する映画資料館だ。旧宅にはアラン・ドロンやマリー・ラフォレ、ミレーユ・ダルクといった当時人気絶頂だった俳優や、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など多くの映画人がご夫妻を慕って訪れている。フランス映画社の副社長を務めていた娘の和子さんとご夫妻がお亡くなりになられて、誰も住まわれていなかった邸宅を遺族が鎌倉市に寄贈されたのは平成6年のこと。翌年には文化施設を作って市民に還元してはどうか…という計画は持ち上がっていたが、元々ここは緑地保全地帯であり住宅街というところから規制があったため、活用方法について様々な意見が上がるも、思うように計画は進まず設立までかなりの時間を有した。最終的に鎌倉市が下したのは、ご夫妻の映画に対する功績と、大船に撮影所があった事から映画に特化した記念館の設立だった。


こちらの企画展は、シネアストだけに開かれたものではなく、鎌倉を愛した映画人を中心に、文学・絵画・音楽…と、映画を多角的に楽しめる内容になっている。例えば、“鎌倉・映画・文学〜鎌倉を彩る名作の世界〜”と銘打った企画では、鎌倉ゆかりの文学を映画化した作品を、鎌倉に馴染みの深い田中絹代や笠智衆、そして小津安二郎監督作品のポスターや愛用されていた遺品の数々を展示。また昨年急逝された女優・原節子の特別展では親交の深かった写真家・秋山庄太郎が撮影したポートレートを展示された。「原節子さんの追悼企画には本当にたくさんの方々に来ていただけました。実は3年前にも企画展と特集上映を行ったのですが、今回、同じ作品をやったにも関わらず、全ての作品が満員で…改めて原さんの凄さに驚きました」と阿部さんは振り返る。他にも、ポートレート撮影の第一人者である写真家・早田雄二が手掛けた女優70名の作品を展示した企画展には正に映画ファンに留まらない数多くのお客様が来場した。勿論、コアな映画ファンを唸らす川喜多財団ならでは企画も多く、かしこ夫人と親交の深かった岩波ホールの燒悦子総支配人が立ち上げたエキプ・ド・シネマに焦点を当てたり、グラフィックデザイナー野口久光が手掛けたポスターやレコードジャケットをスケッチ画と共に紹介している。

鎌倉ではご夫妻の名前は幅広く認知されており、来館される地元の方は、常設展示されているご夫妻の遺品を眺めながら昔の思い出話しをされるという。それだけに記念館を作るにあたって、旧宅を取り壊す事に多くの反対の声も上がったそうだ。「お客様がいらっしゃる施設なので耐震の問題から新しい施設に建て替えざるを得なかったのです。でも場内にあるランプやエントランスの網代天井は旧宅のものを使っているんですよ」と語ってくれたのは、施設を運営する川喜多記念文化財団で広報を担当している学芸員の阿部久瑠美さんだ。そこで、財団が市から提示されている施設の目的は大きくふたつ。ひとつは、鎌倉市における映画文化の促進に繋がる施設にする事と、もうひとつは川喜多夫妻の功績を後世に伝える存在である事だ。この場所が観光地の中心部に位置するため、小町通りを歩いている人が、何か面白そう…と、気軽にフラッと立ち寄れるように、敢えてターゲットを絞らない幅広く見てもらえる展示のテーマにしていると阿部さんは言う。「あまりマニアックなテーマにするとお客様が入りにくくなってしまう。専門的な事は東京フィルムセンターに任せて(笑)ここは役割が違う…色々な人が映画にちょっとでも触れてもらえるような、間口の広いテーマを掲げているんです」


映画を観てから企画展を観るか?企画展を観てから映画を観るか?映像資料室で上映される企画展と連動した映画の観賞券を持っている方は展示室を無料で観る事が出来る。今年の6月にはデジタル映写機を導入して、上映作品の幅も圧倒的に広がった。ご年輩の女性が多いからだろうか、硬派な黒澤明監督作品よりもハリウッドの恋愛映画とかヨーロッパの古典に人気が集中しているようだ。お客様から「たまたま前を通りがかったので入ってみたらすごく良かった」というお声や「原節子さんの特集に母と一緒に来て、母がこんなに好きだったなんて知らなかった」といった微笑ましい声がたくさん寄せられている。ただ、人気のある作品はあっという間にチケットは完売してしまい、常連のお客様からは予約制を導入して欲しいといった声も上がっている。「どうしても客席が50席しかないので…それだけにチケットの販売方法についてのご意見は本当に辛いですね」ただ最近では枚数に限りはあるものの、鎌倉市内で提携している書店や大船駅前の文房具屋でもチケットが購入出来るようになっている。観光客が少ない夏と冬には、シネマセレクションと銘打ったミニシアター系の作品を上映したり、現在活躍する新進気鋭の監督を紹介するなど、こちらに訪れた事がない若い人たちにもアプローチをされている。

もうひとつ人気があるのは映画人や有識者の皆さんによるトークイベント。俳優や監督に留まらず、字幕翻訳家やプロデューサーといった映画人が登壇されている。中でも私のような映画好きには堪らないイベントが昨年行われた。洋画全盛期の1980年代に活躍された名物宣伝マンが当時の混乱ぶりを語った“スクリーンの裏側は面白い!〜いま打ち明ける、洋画宣伝の世界〜”だった。その2週間前に行われた“戸田奈津子のシネマトーク&サイン会”には、翻訳家を目指しているのであろう若い女性(あまり映画は詳しくなさそうな)で場内が満席となっていたのに対し、あまりにマニアックな内容の前者はガラリと客層が変わって年齢層が高い男性客で占めていたのが可笑しかった。数々の珍作から話題作までをイケイケで宣伝合戦を仕掛けていた東宝東和とヘラルドの裏話が聴けたこのイベントこそ『鎌倉市 川喜多映画記念館』ならではの企画だった。「これは一般受けしない内容だったからお客様もあまり多くなかったんですよね(笑)。川喜多夫妻の仕事もそうですが、配給は映画の中で大きなところなので、集客を度外視して私たちが本当にやりたい企画だったんですよ」


企画展「映画が恋した世界の文学」の時には、作家・詩人である池澤夏樹のトークイベントを開催。「池澤さんはテオ・アンゲロプロス監督の字幕を“旅芸人の記録”から全てやられていて、フランス映画社とも関わりが深かったのです。今回も無理を言ってお願いしたところ、和子さんのためなら…と、快諾していただきましたんですよ」他にも、つい先日行われた“かまくら世界映画週間<フランス篇>”のアフタートークに仏文学者であり詩人の堀口大學の長女・すみれ子さん(詩人/随筆家)が登壇して、お父様との思い出や堀口大學が遺した詩を朗読されたのだが、この朗読が実に素晴らしく、詩の朗読とは読み手によってこんなに感動出来るものなのだ…と気づかされる貴重な体験をさせてもらった。

夏休みには子供向けのワークショップも開催。シナリオ映画教室や映像玩具で自分が描いた絵を動かす体験教室に、毎回30名近くの子供たちが参加している。今年の夏、“アルプスの少女ハイジ 劇場版”の16ミリ上映を行ったところ予想外の反応を子供たちが見せた。ハイジに感情移入し過ぎてしまった数名の子供たちが、ハイジが可哀想…と泣き出してしまったのだ。「クララの遊び相手になるために街に連れ戻されたハイジが病んでしまうシーンがあるのですが、最後は大丈夫なんだよ…って言っても泣き止まなくて、そのまま観てもトラウマになってしまうと思い、途中で帰ったお子さんがいたんです。この時は子供の感受性って計り知れないものがあると思いましたね」

こちらの「友の会」は年会費2,000円で、会員限定イベントへの参加と2枚の映画観賞券が進呈され、企画展を無料で観覧できる。「川喜多夫妻の仕事を伝えるというのが大事なので、ただ映画を上映するだけではなく、目に見える形でお客様と繋がるイベントを企画しています」と阿部さんは言う。時には施設から出て、企画展に合わせて小津監督と笠智衆のお墓を巡ったり、映画“天国と地獄”のロケ地ツアーなどを開催している。せっかく会員になったのに、ギリギリまで観賞券を使わないまま期限が過ぎて無駄にされるという方も多いため「3月には若手の監督に焦点を当てた企画上映をやって、皆さんにオススメしています。普段ならば観ない作品でも、せっかくだから…と観賞して、意外と面白かったと満足して帰られていますよ」


記念館の裏手を少し上がったところにある旧和辻邸は、哲学者・和辻哲郎氏の邸宅を移築した建物だ。背後の山並みと桟瓦葺の屋根が調和した和風建築物として、平成22年9月1日に景観重要建造物に指定を受けている。「これは建物だけではなく、周囲の環境と裏山との調和が高く評価されて、この指定を受けたのは鎌倉市では和辻邸ただひとつなんです」かつては来日された映画人を川喜多夫妻がおもてなしをする場所として使われた。木の扉を開けると広い土間があり、内部は殆ど当時のまま保存されている。近年ではヴィム・ヴェンダース監督の“東京画”で、笠智衆が小津監督の思い出を語るシーンがここの縁側で撮影された。年に二回の見学会の他、「友の会」会員限定のイベントでは土間の囲炉裏を囲んでスニークプレビューや映画談義の会場として使われている。

「これからも昔の名作から新しい作品までを取り混ぜながら、幅広い年代に向けて、この施設が何をやっているのかを少しずつ広めていきたいと思っています」実際に前述した子供向けの上映会で一緒に来たお母さんにも喜んでもらえた事に手応えを感じた…と阿部さんは語る。今、スクリーン数は増えてはいるものの映画館の数は減ってしまい多様な映画が観られる環境では無くなっている。映画を通じて世界と日本を結ぶ…という川喜多夫妻の理念を受け継いだ財団が運営する施設だからこそ、その真価が問われる時代が来ているのではないだろうか。「世界の映画を少しでも多く紹介して感動してもらえたらと思います」そのためにもDVDやネットではなく、やはり映画館で観てもらいたいと阿部さんは最後にこう述べてくれた。「私は劇場原理主義というワケではないのですけれども、記憶に残っている映画って、やっぱり劇場で観たものでした。決してスクリーンの大きさだけではない、体験自体が全く異なるものですよね。ハイジを観た子供たちが感情移入するのを見て、大人になっても劇場に足を運ぶ事をやめないで欲しいと改めて思いました」(2016年9月取材)


【座席】 51席 【音響】SRD-EX

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