たくさんの荷物を抱えた人々をギューギューに押し込んだ列車がホームに滑り込んでくるオープニングが印象的だった今井正監督作品“ここに泉あり”。終戦間もない昭和30年に製作された本作は、衣食住にも困る貧困の時代、群馬県高崎市に生まれた市民フィルハーモニーの楽団員たちを描いた不朽の名作である。当時、木造だった高崎駅舎も上越新幹線の開業と共に駅ビルに変わり、現在では北関東最大のターミナル駅となった。駅から徒歩15分ほどにある中央銀座商店街は、戦前から映画館や芝居小屋が建ち並ぶ興行街だった。そこから少し横道に入ったところ…かつて花街だった柳川町に今も昭和の薫りを漂わせる映画館がある。大正2年1月1日に高崎初の常設映画館として開業した『高崎電気館(創業時の館名は電気館)』だ。創業者の広瀬保治氏は、経営していた芝居小屋で映画の上映を交互に行っていたが、常設映画館をオープンさせるや否や、連日立見の行列が出来るほどの盛況ぶりを見せたという。それからしばらくして、近隣に“高崎劇場”や“富士館”そして“世界館(後の大劇場“オリオン座”)”が、後に続けとばかりに次々とオープンした。


「映画を見たけりゃ高崎電気館」と言われるほど、市民にとって『高崎電気館』は映画館の代名詞で、劇場前は電気館通りという名前が付けられている。そして、高度経済成長期の昭和41年12月に、群馬県唯一となる大映の直営館“高崎大映電気館”という館名で、鉄筋コンクリート建の地下1階、地上3階のビルとして生まれ変わった。縦長の場内は、535席から473席に縮小されたものの2階分の高さがある天井高は圧倒的で、後方の座席はスタジアム形式となっており、観易い映画館と評判になった。こけら落としは、勝新太郎主演の“酔いどれ波止場”と田宮二郎主演の“出獄の盃”の二本立てで、オープン式典には永田雅一社長を始め、専属の江波杏子や宇津井健らが来場された。1階にはバーや小料理屋などのテナントが入り、地下は国際クラブSeoul(ソウル)というダンスホールのあるキャバレーで、よくココに遊びに来たなぁと懐かしむ男性客が今も後を絶たない。

大正6年には資本金10万円で株式会社となった事からも、当時の映画人気がいかに凄かったかがうかがえる。いよいよ無声映画からトーキーへと時代が変わり、映画人気が絶頂期を迎えていた昭和4年8月に木造モルタル二階建ての“電気館”は火災により焼失してしまう。しかし、市民の声に応えるかのように、半年も経たないその年の12月に鉄筋コンクリート3階建の近代的な映画館として再オープンした。新築の館内は天井がステンドグラスとなっており、何よりも土足のままで入場できる事に高崎市民は驚いたという。戦前戦中は近隣に高崎歩兵第十五連隊が置かれ、繁華街もこの柳川町を中心に発展。映画館には兵隊の姿も多く見られた。戦後は兵舎だった場所に市役所などが建ち並び、官庁街が形作られた。戦災を免れたおかげで『高崎電気館』も戦前のままの姿で営業を続け、終戦から僅か一週間後には早々と“東海水滸伝”を1円10銭興行を始めている。



“ガメラシリーズ”や“地獄門”等のヒット作を送り続け、子供から大人まで幅広く親しまれていた“高崎大映電気館”だったが、大映が倒産した昭和46年には大映の看板を下す事になる。そして、経営を東日本松竹興行(株)に移し、松竹の専属館“高崎松竹電気館”と館名も新たに再スタートを切る。しばらくは“男はつらいよ”シリーズなどで人気を博すも、やがてビデオの普及と共に入場者数が減少し、平成元年に松竹が興行事業から撤退してから、二代目の広瀬正和氏は元の館名『高崎電気館』に戻して、洋画専門館として劇場の建て直しを図る。1階には客席数100席の小さな映画館を新設(『電気館2』となったのは平成6年)。2館体制で送るアクションからラブストーリーまで洋画を中心としたプログラムは、新しい世代を開拓した。その矢先、『高崎電気館』は休館を決断を余儀なくされる。平成12年1月に正和氏が病に倒れたのだ。誰もが劇場の再開を待ち望んでいたが、その思いも叶わず4年後の平成16年…正和氏は帰らぬ人となってしまった。それを境に近隣の映画館も次々と閉館され、商店街からは最盛期の面影は映画の灯と共に消えてしまった。

しかし『高崎電気館』の灯は消えていなかった。所有者の公子夫人が正和氏の意志を継いで大切に管理していたのだ。「奥様が頻繁にお掃除したり、空気の入れ換えをしてくれたおかげで、座席やスクリーンはそのまま使えました」と、語ってくれたのは高崎市から映画館の運営を委託されている“シネマテークたかさき”のスタッフで、コチラでは映写技師を担当している飯塚元伸氏だ。「奥様自身は経営に関わっていなかったのですが、ご主人と先代の思い出が詰まった映画館を何とか残したいという一心で、手入れは欠かさなかったそうです」周辺は歓楽街なので、駐車場にしちゃえば?という声も上がっていたというが、公子夫人は出来るだけ長く残したい…と決して手放さなかった。映画のロケで訪れた映画人たちは、その保存状態の高さに驚き、「電気館の復活」という気運が次第に高まって来たという。ちょうど100周年を迎えた平成25年に高崎映画祭の協力で2日間限りの「電気館復活祭」を行ったところ、多くのお客様が詰めかけた。それから間もなく…公子夫人は「このままのかたちで活用してほしい」と、土地と建物を高崎市に寄贈した。高崎市は半年かけて、柱を増築したり、新しく壁を作るなど大規模な耐震工事を行い、平成26年10月3日に再オープンした。こけら落としは勿論、“ここに泉あり”で、現在も毎月無料上映を行っている。昔観たというお客様も多く、中にはエキストラで出ていたという方もいらっしゃるという。テナントだった1階は会議室や展示室に改装され、市民の活動拠点となる地域活性化センターとして運用されている。かつてB級洋画や邦画のムーヴオーバー作品を上映していた『電気館2』も今では講演会やセミナーなどの催し物会場と生まれ変わった。


再オープン後も設備に手を入れて、全ての改修が完了したのは去年の秋。「以前使っていたボイラーは壊れていて、最初の冬はストーブを4台入れて暖をとりました。それでも寒かったですけどね。昨年の夏にエアコンの設置工事を行い、ようやく快適に過ごせるようになりました」と、飯塚氏は笑う。ちなみに場内の椅子に付いているシートカバーは休館前のまま。地元企業やお店の広告となっており、電話番号も昔の局番で、今では存在しない会社もたくさんあるという。

今まで使われていた2台の映写機も、しばらく使われていなかったためレストアが必要だった。古い映写機に詳しい専門家ですら、修理は無理と匙を投げたほど。それでも何とか1台は復旧して、もう1台は復元してロビーに展示されている。先日、デジタル映写機も導入して、作品の幅も以前より広がった。高崎映画祭の会場としても使われており、2月にはプレ映画祭として“昭和歌謡映画特選”と銘打って、“昭和枯れすすき”や“赤いハンカチ”等の4作品をフィルムで上映したばかりだ。昨年の映画祭では、“地獄門”等の復元された作品のフィルム上映と同テーマのシンポジウムを開催。今年も映写技師養成のシンポジウムを予定している。

やはり『高崎電気館』で映画を観るなら昔の名作をフィルムで観たい。「大映の専属館だったからでしょうか…市川雷蔵祭には、ものすごいお客様が来場されたんです。その時、作品選定の方向性が見えたような気がしますね」と語る飯塚氏。現在、角川映画が旧作のレトロスペクティブに力を入れているおかげで、若尾文子映画祭や市川崑監督特集といった名作に比重を置いた構成が出来るようになったという。ユニークなのは、昭和40年代に作られた県政映画“群馬ニュース”の特別上映だ。最近はとんと見なくなった映画が始まる前に掛かっていたローカルニュースを無料で観れるのは全国でも珍しい試みだ。「お客様は地元にお住まいの年輩の方が多く、映画というよりも映画館を懐かしんでくれています。こんなだったっけ?と言って見学したり、久しぶりに来て道を忘れちゃったよ…って言われたり。建物は開放して自由に見学出来ますので、これをキッカケに、また映画館に来てもらえたら嬉しいですね」(2016年1月取材)


【座席】 256席 【音響】SR 【住所】群馬県高崎市柳川町31 【電話】027-325-1744


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