日本がオリンピックで湧く平成24年の夏、衝撃的なニュースが飛び込んできた。浅草六区で昭和初期創業の5つの映画館『浅草世界館』『浅草シネマ』『浅草新劇場』『浅草中映劇場』『浅草名画座』が平成24年10月21日を最後に建物の老朽化を理由に閉館されるという。いや、このご時世だからそんなに遠くない将来、この日がやって来るだろうとは覚悟はしていた。しかし、頭では理解しても心は何とか…だ。特に「さよなら公演」は行わず自然に消えていく潔さに下町気質を感じ、だったらその意を汲もうと、あえて最後の瞬間には立ち合わなかった。メイン通りのドンつきにある2つの成人映画館『浅草シネマ』と、実は一番イイ位置を陣取っている『浅草世界館』は、映画を観るより客を観察していた方が面白かった。





そして、洋画のムーヴオーバー館として絶対に恋愛映画はやらないという判りやすいコンセプトの『浅草中映劇場』、ごった煮のようなプログラムでアクションと喜劇とサスペンスという脈絡のない組み合わせが逆に楽しかった三本立の名画座『浅草新劇場』『浅草名画座』で思わぬ拾い物をしたものだ。

浅草寺の門前町として江戸時代から遊郭や芝居小屋が集まって関東随一の繁華街として栄えてきた浅草。明治時代には浅草寺境内が浅草公園となり、浅草は一区から七区に区画整理される。六区には明治36年10月1日に日本初の常設映画館となる活動写真館“電気館”が創業し、見世物小屋や芝居小屋が軒を連ね、日本初の遊園地花やしきと共に観光地として発展し続けてきた。戦後は、映画、レビュー、女剣劇、ストリップなどで賑わいを見せる。『浅草新劇場』『浅草世界館』『浅草シネマ』の入っている浅草新劇会館が創業されたのは昭和2年。当初は“江川劇場”という玉乗りなどの実演を見せていた劇場だった。その6年後、昭和8年に隣接する浅草中劇会館が建てられ、“河合キネマ”という館名の映画館としてスタートする。『浅草名画座』と『浅草中映劇場』(設立時は“浅草映画”という館名)としてリニューアルオープンしたのは昭和27年のこと。戦後間もない浅草には、娯楽を求めて多くの人が訪れ歩くことすらままならない人で溢れていた。六区には当時の日本映画直営館が全て集結しており、封切日には客の入り状況を調べるため会社のお偉方が直々に馳せ参じていたという。

運営する中映株式会社の前身は昭和19年2月に松竹の完全子会社として設立された中央興行と3月に設立された共立興行。昭和28年に2社が合併して中映株式会社となり日本映画の最盛期を経て、数多くの名作を送り続けてきた。昭和30年代の浅草新劇場会館は壁面がレンガ作りとなっており重厚な雰囲気を醸し出していたが、その後、大きな館名のネオン看板も外され、元の壁面に白いパネルを貼り付けて改装されてしまった。やはり年月の経過による傷みはどうにならなかったのだろう。エントランス横にあるショーウィンドウには現在と次回上映作品のスピードポスターが貼られており、浅草を訪れた観光客は足を止める。昭和の映画館を体験した年代のお父さんやお母さんは必ずと言って良いほど「懐かしいなぁ。観たいね」と話す姿を見かける。

『浅草シネマ』は平成24年9月17日、『浅草世界館』は9月25日、そして『浅草中映劇場』『浅草名画座』『浅草新劇場』は10月21日に順次閉館。遂に日本の映画興行の発祥の地浅草から完全に映画の灯は消えてしまった。今のところ再開発については検討を進めているものの具体的な決定はされていない。(2012年9月取材)


  本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street