日本有数の温泉街として名高い九州・大分県別府市。「子供に夢を与えたい…」と、興行の経験も無かった故・中村伝助氏が、別府駅前通りに『別府ブルーバード劇場』を設立したのは戦後間もない昭和24年。ディズニー映画“白雪姫”がこけら落としだったコチラの劇場は、当時、日本映画が主流だった市内の劇場とは異なり欧州映画を中心に上映されていた。「劇場名を地元の小学生に公募して“青い鳥”という館名からスタートしたんです。父がそのクラスの子供たちを全員招待したのを覚えていますよ」と語ってくれたのは、現在、受付や清掃から映写技師に至るまで劇場の全てを一人で切り盛りしている館主の岡村照さんだ。「当時は平屋の木造建てで、欧州映画やニュース映画を上映して、私はもぎりの手伝いをしていました」それから間もなくして“黒水仙”や“無防備都市”といった欧州映画が主流となり、地元の高校生から映画館の横文字の方がカッコイイんじゃない?と言われた先代は館名を横文字の“ブルーバード”に変更。その後、別府市内だけで20館以上、駅前通りには大手直営館を含む5館の映画館が軒を連ねる日本映画全盛期となる昭和30年には劇場を2階建てに改築する。


石原裕次郎作品で勢いのあった日活映画を専門に上映するようになり館名も“日活ブルーバード”に変更する。「ナイトショーは夜中の3時から4時までやっていて、どんどん場内に押し込んでいましたけど、それでも列は途切れる事がなかったですね」連日、劇場から駅前にかけて行列が出来るほどの盛況ぶりを見せたという。まだ学生だった岡村さんは正月興行の手伝いで出される大入り袋が嬉しくて大切にためていたそうだ。「舞台挨拶で小林旭さんや浅丘ルリ子さんといった日活のスターがしょっちゅう来場されていましたから本当に劇場は賑やかでしたよ」ところが、それまで隆盛を続けていた日活の勢いも衰えを見せ始め、昭和40年に入ると日活は突然ポルノ路線への転向を打ち出す。ちょうどブルーバード会館という3階建てのビルで再スタートを切った頃だ。ポルノ映画だけは…と、頑なに拒んだ先代は、劇場を日活の直営として貸出して、興行から手を引く。「父は退きましたが、どうしても私が映画館を続けたくて…」という岡村さんが、当初、喫茶店だった2階を映画館に改装。

洋画再映館“テアトルブルーバード”として興行を再開する。それからはご主人と映画館事業を引き継ぎ、アイデアマンだったご主人は、喫茶店だった特長を活かして場内に喫茶店のイスとテーブルを残してコーヒーと軽食を摂りながら映画を観られるカフェスタイルの劇場として北海道からも取材に来るほど注目を集めた。他にも劇場入口に掲げられた映画ポスターのパネルもご主人のアイデアだ。

「やはり子供の頃から父親に連れられて劇場に来ていたからでしょうね。どうしても映画館だけはやめて欲しくなかったんです」お父様もそれから間もなく昭和45年に他界、その翌年にはご主人も心不全で帰らぬ人となる。「私には映画しかないですから…」という岡村さんは場内を普通の劇場スタイルに再改装し、昭和50年に市内にあった松竹の直営館が閉館した事から松竹の封切り館“松竹ブルーバード”となる。ちょうど“男はつらいよ”が看板映画として人気を博していた時代…別府でロケを行った“男はつらいよ 旅も嵐も寅次郎”は、オープン以来最高の興行成績を記録する。「全国の映画館主を招待したパーティーがあって、そこで表彰をされたのが何よりも嬉しかった」と岡村さんは振り返る。「当時は街を上げて応援してくれましたから、前売り券をたくさん買ってくれて…やっぱり地元でロケをした作品は強いですね。作品さえ良ければウチみたいな小さな劇場でもお客さんは入ると証明されたのですから」岡村さんが映写機の使い方を覚えたのはこの頃だという。「当時の映写技師さんがよく遅刻する人で(笑)上映時間が遅れる事もしばしばあったので、いっそのこと私がやってしまおうと…」当時は2台の映写機を使ってフィルムを交換するシステムだった時代で、最初の頃はフィルムが切れたりと冷や汗の連続だったと語る。「そんな私の苦労を見ているからでしょうね?二人いる娘は絶対、映画館は継がないって言ってますよ」と笑う。







平成11年より、松竹専門館から邦画・洋画を問わず上映する再映館となり現在に至る『別府ブルーバード劇場』。昔ながらのレトロな雰囲気が気に入られて阪本順治監督の“顔”のロケが行われ、岡村さんもエキストラで出演されている。「大分市内までは車ですぐの距離ですから若い人はどうしてもシネコンに行ってしまうようですね」というコチラの客層はもっぱら年輩のお客様が主流。再映と言えども心待ちにされている地元のお客様も多く、取材時も女性のグループが何組も来場されていた。最近では単なる再映だけに留まらずリバイバル週間と銘打って、昔懐かしい“キューポラのある街”といった日活の名作特集上映を行なったりして、街の名物イベントとなっている。「来場された皆さんがやっぱりテレビと違って良いですねと言ってくださるので、これは続けていきたいと思っています」今年の夏には7月に逝去された大分県出身の貞永万久監督の追悼特集として“球形の荒野”と短編作品“竹の生涯”を上映。

特に短編作品は大分の人間国宝のドキュメンタリーとして別府市の全面協力の基に完成した作品である。「貞永監督の訃報を知った時、これは絶対に追悼番組を大分でやらなくちゃいけないと思いまして…。実は”竹の生涯の試写会を昔、ウチでやっていたのです」こうした上映会が行えるのも別府はロケが盛んに行われた街であることと多くの文化人を輩出しているという背景があればこそである。雨の平日ともなると、お客様が一人しかいない時もあるという。そんな時、お客様の方が逆に“ごめんなさいね…”と恐縮されるそうだが、岡村さんは観客が何人であろうと、喜んで映写機を回している。たまにお客様から“大変でしょうけど閉めないで”と声を掛けてもらう事もしばしば。「昔の夢をもう一度って思うけど、そんな事はもう無いね」と笑う岡村さん。「そんなに 儲からんでも経営さえギリギリやっていける程度のお客さんさえ来てくれたらそれで良いんです」と語る岡村さんは、お父様とご主人から引き継いだ映画という文化の灯を絶やさぬよう別府にともし続けている。(2011年9月取材)


【座席】 80席 【音響】DTS・SRD

【住所】大分県別府市北浜1-2-12ブルーバード会館2F 【電話】 0977-21-1192


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