今も変わらない昔のままのチケット売り場で入場券を購入する。明るい笑顔で「ありがとうございます」とチケットを渡してくれる。向かいの映画館『シネマ ジャック&ベティ』(本劇場と同じ系列)から上映開始を告げるブザーが鳴り響いている。チケットを握り締め受付を通り、上映開始までの間ロビーのソファーに腰掛ける。かすかに場内の音が聞こえて来るのを出来るだけ聞かないように次回上映作品のポスターを見て気を反らそうとする。漂うタバコの匂いの中で懐かしさを感じる劇場…これが『横浜日劇』の光景だ。

昭和20年5月29日の横浜大空襲によって一面焼け野原となった横浜は、戦後10年近く、国内の62%を占める土地を米軍に接収され、山下公園の海岸よりは米軍関係者の住宅地、伊勢佐木町から黄金町界隈は飛行場となっていた。焼け残ったデパートも米軍専用となり、映画館も駐留軍用の劇場とされていた。やがて、4丁目までしかなかった伊勢佐木町通りは8丁目まで伸び、90万人の人口も100万人を越えて復興の兆しが日に日に現れ始めていた。

『横浜日劇』の設立は米軍の接収が解除された昭和28年12月29日、松竹“大江戸六人衆”、大映“母の湖”、新東宝“やくざ船”の邦画三本立てで旧飛行場後にオープン。当初は邦画専門館で、日劇という館名もここからきている。斜向いにある同系列の“名画座(後の『シネマ・ジャック&ベティ』)”が洋画専門館で「洋画は日劇、邦画は名画座」として地元横浜っ子から親しまれていた。それから数年後、横浜では2番目にシネマスコープを導入し洋画専門館に移行し、当時立ち見のお客様で溢れ、場内に入り切らなかったという。今でも入り口に堂々と掲げる“CINEMASCOPE NICHIGEKI”の看板は当時のままの風格と貫祿を見せてくれている。場内に入ると高い天井が観客を包み込んでくれ、薄明りの中ドキドキしながら上映開始を待つ。


この映画館の名前が全国的に知れ渡るのは林海象監督のハードボイルド探偵ドラマ“私立探偵 濱マイク”シリーズから。永瀬正敏演じる主人公の探偵事務所が居を構えたのが『横浜日劇』の2階だった。今では使われていない2階席も最盛期には連日満席という状況が何度も続いた。横浜の下町・黄金町にある映画館だから麻薬の取引やコールガールの客引き等、数々の犯罪の温床となることもあったという。昭和50年代までは禁煙というサインも空しくアチコチでタバコの火がポツリポツリ…そういった危なっかしい雰囲気も『横浜日劇』の風物詩であった。それでも『横浜日劇』に根強い人気があったのは、娯楽作品を中心とした二本立て、たまに三本立てなんて贅沢な事もやってくれるから。その二本立てのセレクトも実に心憎い組み合わせで映画ファンの心をくすぐってくれる。「二本立ての難しさのひとつは一本良い作品があっても、それに合ったもう一本の作品が出てくるまで待っていなくてはならない所。だから良い二本立てが出来るまで作品をいくつか並べて待っているんですよ。」と、経営者である福寿祁久雄氏は語ってくれた。番組の構成も福寿氏が考え、選出しているそうだ。「二本立てとは何かって追求して行くと横浜のスタイルが自然に生まれてくるんです。やはり地元にピッタリとした番組じゃないとダメだということなんです」確かに福寿氏が言う通りここで上映される二本立てには、ある種の共通性が存在している。


「あらゆる側面や立場から描き方が違う映画を見比べる事が出来るのが二本立ての良いところなんです」こちらの二本立て番組を見ていると劇場のこだわりが色濃く出ており、ある意味小さな特集上映と言っても過言ではない。だからこそ固定客が多いのもうなずける。「先日、大学の新聞部の学生がやって来て取材を受けましたが、その時の学生の質問で“古い映画を観る価値はありますか?”っていうのがありました。古いとか新しいとかでなく映画はどれでも観る価値はあるんです。古い映画を観ることで時代の足跡を知る事が大切…私が古い映画の特集をやっている事をそういう事だと思って観に来てくれるとウレシイですね」こだわり続ける劇場と、そのこだわりに対してハッキリと反応してくれる観客…質と量を求める両者が、もしかすると今の映画界とこれからの映画界を支えて行くのかも知れない。「お客様の立場にたって上映番組を選んでいます。プロなんだけど常にお客様に近づこうと思い、観客が持っている感性とか心理とかを現在の状態で把握して最高の番組を作っていきたい」と、最後に語ってくれた言葉が印象的だった。(取材:2000年8月)


【座席】 358席 【音響】DS 【住所】神奈川県横浜市若葉町3-50 ※2005年2月18日を持ちまして閉館いたしました。


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