アリゾナの小さな町に三人の流れ者がやって来る。その三人はその日のうちに銀行を襲撃して砂漠へ逃げる。悪党である。その悪党の一人をジョン・ウェインが演じているのが珍しい。いつも西部劇のウェインといえば人格者が多いが本作では肝の据わった悪党だ。そのメキシコ人の相棒を演じるのがペドロ・アルメンダリス。『007ロシアより愛をこめて』で演じたボンドを助けるフィクサー役が印象に残る。そして、保安官に肩を撃たれて負傷する若者を演じたのが、サイレント時代からの西部劇の大スターだったハリー・ケリーの息子ハリー・ケリー・ジュニアで、本作がデビュー作となる。

原作となる1913年に出版されたピーター・B・カインの処女作は、日本でいうところの「忠臣蔵」と同じくらいにメジャーな作品らしい。1920年代の無声映画時代のハリウッドでは大衆小説を数多く映画化しており、その中の一人にカインの名前が挙げられている。1930年代に入ると弱小プロがカインの作品を数多く映画化していたとパンフレットには書かれている。カインの作風には、喜劇あり、悲劇あり、風刺劇ありで、全てにおいて通じているのは、人情を扱っている涙と笑いの世話もの作家であると紹介している。『三人の名付親』は、サイレント時代からこれまで5回も映画化されており、その内『恵みの光』というタイトルでジョン・フォード監督が、ハリー・ケリー主演で製作した。つまり本作で2作目。1947年にハリーが他界したため「初期のウエスタンの輝ける星、ハリー・ケリーの思い出のために」という献辞から本作は始まる。

元々、銀行強盗を目的としてやって来た三人は町の様子を探るべく町外れにある家を訪れる。庭仕事をしていた男と世間話に興じたところで、男がチョッキを羽織ると胸に保安官バッヂが光っている。一瞬にして走る緊張感。フォード監督のこのユーモアを交えた見せ方が上手い。保安官を西部劇の良心とも言える名優ワード・ボンドが演じる。砂漠に逃げ込んだ三人を保安官は執拗に追いかける。アリゾナの砂漠と言えばソノラ砂漠だが、本作のロケ地はカリフォルニアとネヴァダとの州境にあるデスバレーで、かつて谷を越えようとした金鉱夫が暑さの中で大勢が渇死した事からこの不吉な名前が付いた場所だ。劇中、この砂漠の暑さが三人の行手に大きな難関となって立ちはだかる。

追跡中に保安官は水が満タンの水筒に狙いを当てて撃ち抜く。砂漠を横断して逃げるには水は不可欠だ。それが保安官の作戦。案の定、三人は水を補給すべく給水所に向かう。ところが保安官たちが先回りしていたため、水の補給が出来ず炎天下の砂漠で、三人は喉の渇きに苦しむ。この映画は、撃ち合いよりも喉の渇きと戦う三人の持久戦がメインという珍しい西部劇でもある。この映画で砂漠の中でもアメリカ大陸を横断する鉄道の駅に雨水を溜める給水塔があって、蒸気機関車以外にも大陸を旅する開拓民たちにも無くてはならない施設だったと改めて知らされた。また、ジョン・ウェイン演じる老齢のガンマンがサボテンを切って搾り汁で水分を補給してみせる描写があって勉強になった。

フォード監督作品で常連の撮影監督ウィントン・ホッチのカメラは、颯爽と馬を駆る西部劇によく見るショットではなく、喉の渇きに耐えながら徒歩でゴツゴツとした足場の悪い砂漠を歩く三人の表情に肉迫する。その反対に、苦悶に喘ぐ彼らの背景に広がる真っ青な青空と赤茶けた砂漠のコントラストがアンビバレントな素晴らしい効果を上げている。

途中で、三人は瀕死の妊婦を発見する。何とか出産を手助けして赤ん坊を取り上げるが母親は死んでしまう。死の淵で名付親になって欲しいと言い遺した母親の遺志を受けて、三人は彼等のファーストネームを付けた子供を連れて砂漠を横断する過酷な逃亡劇を展開する。本作は、聖書の中に登場するキリスト誕生の日に現れた三人の聖者に重ねて、赤ん坊を助ける三人の無法者の逃亡劇を描いたヒューマンドラマの側面を持った西部劇だ。原題の「スリー・ゴッドファーザー」のゴッドファーザーとは、洗礼名を付けた男性に対する呼び方であり、キリスト教に馴染みの薄い日本人向けに邦題を「名付親」としたのは正解だった。荒々しいイメージの西部劇において、優しさが滲み出る名タイトルだったと思う。

三人は赤ん坊を助けるため喉の渇きに耐えながら砂漠を横断する旅が始まる。やがて三人は、赤ん坊に対して愛着が深まってくる。赤ん坊の名前を呼ぶ時に、自分のファーストネームが端折られると、「俺の名前が抜けている」と文句を言う姿が微笑ましい。保安官に肩を撃たれていたジュニアが倒れ、続いて負傷して動けなくなったアルメンダリスも子供の無事を祈りながら自ら命を絶つ。ジュニアが息を引き取る間際に、アルメンダリスがそっと帽子で太陽の日差しを遮ってやるシーンは感動的だ。最後、生き残ったウェインが子供を無事に街まで送り届けた功績が認められて、刑が軽くなるというハッピーエンドとなるのだが、この映画で唯一気に食わないのがこのラスト。これこそが「ハリウッド・エンディング(1950年代に多かったご都合主義的なハリウッド流の終わり方)」と揶揄される最たるもので、ウェインが赤ん坊を街に送り届けて息耐えるラストの方が感動したと思うのだが。