ジュディ・ガーランドのデビューから晩年を描いた伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』を観て、単純に幸福とは言えない苦悩と迷いと混乱に苛まれる一人の女優の姿に愕然とした。晩年と言うには、あまりにも若過ぎる47歳で生涯を終えた彼女の姿に、ドロシーの姿を被せるには正直つら過ぎた。若き日に開花したがため自らの才能に苦悩するジュディをレネー・ゼルウィガーが熱演。劇中のラストステージに立つシーンで、観客と一体となった時に見せた彼女の表情が『スタア誕生』のジュディに酷似していてハッと驚かされる。日本の副題である『虹の彼方に』は、(少々説明過多だが…)誰もが知るジュディのデビュー作にして彼女を大スターに押し上げた『オズの魔法使』の主題歌だ。

『オズの魔法使』が製作されたのはアメリカが戦争に突入する間近の1939年。映画はドロシーが現実に生きる世界をモノトーンで描き、竜巻で飛ばされて迷い込んだオズの世界をカラーで描かれている。(こんな物量の国と日本は戦争して勝てると思っていたのか…)ドロシーが歌う「虹の彼方に」は、叔父の農園で暮らす少女が、悩みがなく夢の叶う場所を夢見て情感豊かに歌う映画史に残る名曲であると共に生涯に亘るジュディの代表曲となった。ところが覆面試写会では、この曲がカット候補2曲のうちの1曲に挙がっていたというから驚く。そこを当時まだ製作補佐だったアーサー・フリード(後に『イースター・パレード』や『巴里のアメリカ人』等ヒット作を連発する名プロデューサー)が強く反対して残される事となった。おかげで「虹の彼方に」は、アカデミー歌曲賞を受賞したのは有名なエピソードだ。

ジュディ・ガーランドというアメリカ映画史を語る上で欠かすことができないMGMミュージカル女優は、この作品以降、次々とヒット作を連発する。メジャー映画会社の社運を賭けた映画の主役に選ばれて、その重責から不安になった彼女をMGMの社長ルイス・B・メイヤーが、説得する際、ドロシー役の候補にシャーリー・テンプルも挙がっているという実話を巧みにセリフに入れたのは上手い。当時、太り気味だった16歳の多感な頃のジュディは、過剰なダイエットを強要されており、興奮剤と睡眠薬の服用で精神的にも不安定な状態の中でドロシーに挑んだという。と、いうよりも大人たちに、強制的に挑まされたと言った方が正しそうだ。

オズの国に着いたドロシーは、モノクロの世界から原色に彩られる光り輝く世界に愛犬に呟く「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ」というセリフは、米国映画協会が選ぶ米国映画名セリフのベスト4に選ばれている。映画の中で何気なく使われたこのセリフは、アメリカ国民にとって日常の例えに使われる慣用句となっており、知らない土地で勝手が違う事に遭遇した時に使われている語句である。勿論、使う本人がカンザス出身かどうかは問題ではない。虹の彼方にあった世界は自分が望む世界であったものの本当に安らげる場所は、自分が今まで生活していた場所であると気付く原点回帰がこの映画のテーマである。

このセリフがアメリカ国民に受け入れられたのは、この考え方がアメリカ文明の原風景であるからだ。アメリカの中央部に位置するカンザス州は大草原池であり古き良き開拓者魂を持つ土地だ。開拓時代に自らの力と才覚で切り開いた土地に対する思いは戦前のアメリカ映画には数多く存在したのは事実だ。チャップリンが赤のレッテルを貼られてハリウッドを追われたのは、そうしたフロンティア・スピリットに否定的だったから。開拓者讃歌は時としてネガティブな思想を引き出す事もあるのだ。

原作は1900年に出版された児童文学作家ライマン・フランク・ボームの同名ベストセラー・ファンタジーをMGMが映画化権を買い取った。というのも当時、初のカラー化アニメーションとして大ヒットしたディズニー映画『白雪姫』の成功に触発され、実写で子供から大人まで感傷に耐えうる映画を作ろうという思いから生まれたものだった。この映画が作られたのは『風と共に去りぬ』と同じ1939年で、どちらもヴィクター・フレミングが監督しているからすごい。物語はオズの国から故郷に戻るためにオズの魔法使に合わなくてはならないドロシーが魔法の靴を履いて、臆病なライオン、心のないブリキ男、藁の頭のカカシと共に旅を始める。美術監督セドリック・ギボンズが作り上げたオモチャ箱をひっくり返したような道中も実に楽しい。そうしたセットに負けず劣らずコンプレックスを抱える三人のお供が見せる、それぞれの持ち味を活かした無邪気で滑稽なダンスが素晴らしい。