とても良い邦題をつけたと思う。原題は「The Search」かなりドライだ。アウシュビッツで生き残ったユダヤ人の少年を探す生き別れた母親の物語だからこのようなタイトルになったのだろうけど、あまりに味気ない。公開が5年も遅れた日本では、それを『山河遙かなり』とした。本当に良い邦題だ。多分、中国の詩人杜甫が書いた詩と、芭蕉が書いた奥の細道の平泉に出てくる「国破れて山河あり」から引用されたものと思う。第二次世界大戦が終わり、強制収容所に残されたユダヤ人の子供たちを保護する連合軍の物語で、終戦から僅か2年後足らずの1947年、まだ民間人は立ち入り禁止になっていたドイツの街(当時のパンフレットによるとミュンヘンとニュールンベルク近郊)で撮影されたという。映画の冒頭で表示される「合衆国陸軍と国際難民救済機関の協力でドイツの米占領ゾーンで作られた」というテロップが生々しい。だから屋外シーンに出てくる爆撃で破壊された街の風景はセットではない。そんな戦争の廃墟の中で生き残った子供たちの姿は正に「国破れて山河あり」と思う

しかし、実際の撮影現場は、そんな悠長な事を言ってられるような状況ではなかった。殆どの戦勝国がナチスがユダヤ人に行った非道な行為の現実を知らずに、戦争が終わった勝利に浮かれていた時代だ。両親を戦時下でナチスに殺されている過去を持つユダヤ人のフレッド・ジンネマン監督は、ドイツにあった全ての難民キャンプを訪れて、ここにいる子供たちをちゃんと見せなくては、当時のヨーロッパで何が起きていたのか、想像することは出来ないだろうと考えたと、「フレッド・ジンネマン自伝」で述べている。冒頭、収容所から救い出された子供たちを乗せた貨物列車が駅に着く。扉を開けると、真っ暗な車両で折り重なるように眠る子供たちが映しされる。ゾッとする描写だ。

ジンネマンは難民キャンプで聞いた話を持ち帰るとあまりにナチスが行った事例の多さに脚本家のリヒャルト・シュヴァイツァーは、どこから始めて良いのか分からないと言ったという。そこから生まれた物語の骨子が「生き別れた息子をドイツ中の施設を巡って探している母親」という設定だった。ここでジンネマンは「無邪気なアメリカ人観客にヨーロッパで何が起きたかを気づかせるのが最も重要」と辛辣な思いを吐露していたのが印象に残る。そのため真実をそのまま映画化するのではなく、母子の物語に、アメリカ軍兵士が手を差し伸べるエッセンスを加えて人情ドラマとすることで、多くの国民に観てもらうことが出来た

劇中に出てくる子供たちの多くは難民キャンプにいる子供たちだったという。映画が撮影された時は、子供たちにとっては強制収容所の記憶は僅か数年前の出来事。ドイツの降伏によって救済されて間もない頃の子供たちは、食堂で食事をしている時に後ろから大人が手を伸ばしただけで、驚いたように数人の子供たちはパッと手を挙げる。これは、パンを隠していないとナチスの兵士たちに証明するための自然な反応であった。このエピソードは映画の中でも紹介されている。収容所のトラウマから制服を着た人間を極端に恐れ、戦前から活躍する名脇役のアリーン・マクマホン演じる国連救済所の制服を着た職員が部屋に入ってくるだけで、子供たちは演技ではなく皆凍りついたという。また、子供たちを赤十字の車に乗せて移動するシーンの撮影時は、赤十字のマークにナチスのマークを連想した子供たちは、再び恐怖が蘇りパニックを起こしたという。

不安に駆られ移送中の車両から窓ガラスを割って逃げ出した主人公の少年が、廃墟の街でモンゴメリー・クリフト演じるアメリカ兵士のラルフと出会う。少年を演じたのはイヴァン・ヤンドルというチェコでラジオ劇に出演していた子役で、言葉を上手く話せない前半で見せる怯えた表情は素晴らしい。物語はドイツに駐留するアメリカ兵がユダヤ人少年の閉ざした心を解きほぐすまでの交流を中心に描かれている。ユダヤ人収容所の生活によって、記憶喪失症になった少年が、次第に心を開いて別れた母親に会いたいと打ち明けるシーンが涙を誘う。時を同じくして、息子の所在を探す母親が国連救済所を訪ねてくる。このあたりから、作為的なハリウッド映画特有のすれ違いドラマが目に付くのだが、その理由も前述したジンネマン監督の確信犯的な演出であり、戦後間もない世界の状況が垣間見える。