2018年は、スウェーデンと日本の外交関係が樹立して150周年ということで「国立映画アーカイブ」で開催された「スウェーデン映画への招待」で『春の悶え』をスクリーンで初めて観る。この意味深なタイトル…原題の「Hon Dansade en Sommar」を直訳すると「彼女はひと夏しか踊らなかった(原作と同じ)」となるが、それが「春の悶え」という何にもカスっていないノーセンスの邦題とした意図は明白。春と悶えなんてどこから持って来たのだろう。主演のウラ・ヤコブソンが本作において世界で初めてヌードを披露したからだ。全くもって当時の日本人の民度の低さを如実に表している事例だが、実はこの作品は日本に限らず世界的にもセンセーショナルを巻き起こしていたのでやむを得ない。

初版パンフレットの冒頭の解説に「西半球に於ける多くの国の映画界に、最も大きなショックを与えそれらの国の映画ファンを異常な昂奮のうずまきの中に投げ込んだ」と紹介されていた。また、当初は日本での公開は禁止され、国によっては問題のシーンが削除されての公開となるケースもあったため、製作者は検閲からハサミを入れられないようにするため3パターンで再撮影を敢行したという。曰く「芸術的良心に逆らった」涙ぐましい決断によって各国はそれぞれ自国の基準に合わせたヴァージョンにて公開された。ただし、今回の上映では3つの内どのパターンだったのかは定かではない。

ただ、残念なことに本作があまりに衝撃的であるが故に、スウェーデンが性に開放的な国という偏ったレッテルが貼られてしまい、1970年代までこのイメージは覆らなかった。かく言う小学生の私もスウェーデンはエッチな国という認識で国名を口にすることすら憚られたのも事実だ。

しかしながら、内容はエリア・カザンの「草原の輝き」のような、大人たちの旧態然とした倫理観に縛り付けられた若い男女の葛藤を描いた青春ドラマで決してポルノグラフィックでは無い。ウラ・ヤコブソン演じる主人公が全てを投げ打って恋人に身を委ねるシーンにおいては、聖なる儀式として裸になるのは、彼女のそうした覚悟を表す上で必然性があって、新人だったアルネ・マットソン監督の判断は正しかったと思う。勿論、本作に出てくる大人たちのようなPTAからバッシングを受けたのは言うまでもないが、当然、作り手側もその辺りの覚悟は出来ていたであろう。一方的な倫理観を押し付けられた二人が裸で湖を泳ぐシーンの映像は素晴らしかった。全てから解放された愛し合う二人の美しさを撮影監督のイエラン・ストリンドベルイは見事に捉えている。

こうしたセンセーショナルな面ばかり取り沙汰されていたが、もうひとつ重要なテーマが、牧師と少年たちの倫理観の違いから来る反目である。この映画に出てくるような農村の若者たちは平日は家の仕事で忙しく、皆で集まれるのは日曜日しかない。そのため日曜日の礼拝にやって来ない若者を快く思っていない牧師は、集会所から若者を締め出してしまう。つまり、この映画では村の牧師と一部の信仰者が、若者の自由に懐疑的な保守派として描かれている点も問題となっている。

ザール共和国(現ドイツのザールランド州)映画倫理委員会では、劇中でのルーテル教会派の牧師の描き方を問題視して、上映を禁止してしまった。一度は輸入を許可したにも関わらずだ。教会による支配と若者の自由への欲求の対立は、ヨーロッパの信仰を根底から揺るがす事態であり、ある意味、映画の中で女性の裸体を映すという行動を含めて、過去の倫理観や価値観を覆そうと考えたものではなかったか。安息日に芝居の稽古に興じる若者に対して不満を口にする牧師に主人公が言う「神は若者に不寛容ですか?」。村人たちは若者の行動に理解を示しているため、若者と教会の確執からやがて村人と牧師の確執へと変わる。