ウィリアム・ワイラー監督が西部劇を作るとこうなる…『大いなる西部』は、それまでジョン・フォードやハワード・ホークスの西部劇に見慣れていた僕にとって、これって西部劇なの?と戸惑う映画だった。この映画は従来の西部劇のような勧善懲悪ものではない。住民や新しい入植者たちを虐げる町を牛耳る悪漢は出てこないし、弱者を助ける流れ者のヒーローも出てこない。ここで描かれるのは新しい西部への時代の変換だ。力で制圧する時代から、正義とは何か?真の勇気とは?言い換えれば、開拓時代から言われてきた「男らしさ」の定義に一石を投じた西部劇であった。そう言えば、山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』にも武士道の時代からの変革期に生きた主人公に、それに近い時代の空気を感じた。

6頭の馬が全力で引っ張る馬車が砂煙を上げて疾走するオープニングは、あまりにもカッコよく刺激的でもある。そうだ!今までの西部劇って、どちらかというと、のどかで牧歌的な音楽をバックに平和的な雰囲気から始まるのが多かった。タイトルコールが終わった途端に、静寂を打ち消すような衝撃的な音楽と共に悪党が現れる。それが馬車の車輪をアップに、ジェローム・モロスの高揚感溢れるスピード感溢れるストリングス中心のテーマ曲が流れると身体が高揚する。そして、広大な荒野を走る馬車のロングショットに浮かび上がる「BIG COUNTRY」のタイトル。あぁ、何と力強い映像なのだろうか。この3分程のオープニングだけで、たちまちこの映画が大好きになった。実は、私がこの映画を知ったのは、叔父が持っていたこのテーマ曲のEP盤のレコードから。サントラ盤ではなかったのでアレンジは違っていたのだが、ガットギターの旋律から始まる静かな曲という印象があったので、初めて映画を観た時は、こんなにダイナミックな曲だったのかと驚いた。

ちなみに、映画評論家・川本三郎氏の著書「映画を見ればわかること」の中で、ワイラー監督の娘キャサリン・ワイラーが製作したドキュメンタリー映画に『大いなる西部』の曲が使われていた事を紹介されていた。その点について質問されたキャサリンは、(この作品の)音楽は父親よりも私の方が好きだと答えていたそうだ。ソウル・バスが手掛けたオープニングは、モハーヴェ砂漠(『バグダッド・カフェ』のロケ地)で撮影されたが、前日に雨が降って理想的な砂埃が立たなかったため、急遽馬車の車輪から小麦粉を撒いて砂埃に見せかけたというのは周知の通りだ。

駅馬車に乗っているのが、この土地の娘と結婚をするために、東部からやって来たグレゴリー・ペック演じる海の男だ。町の名士たちが口々に土地の広さを自慢する際に、広さを言うなら海の方が広い…と意に介さないのが面白い。撮影監督のフランツ・プラナーは、広大な大地が表現出来る遠景の映像にこだわる。俳優が演じていても背景にある遥か遠くの丘陵地帯までシネスコサイズに収まるよう配置を計算しているのが見て取れる。グレゴリー・ペックが婚約者の屋敷のテラスから広大な牧場を眺める何気ないシーン…そのスケールの大きさに感動する。遠くに見える牛の群れや、馬で走り去る牧童たちが小さくなって行くショット(大型フィルムのテクニラマによる精細な映像に驚く)は、正にビッグカントリーを象徴する。

この映画で初めて分かったことがある。西部で事業を広げるために大事なものは水源である事。いくら牛の数を増やし、土地を拡張したとしても、牛や作物を育てるためには水が無くてはどうにもならない。そのため、ふたつの牧場主が水源のある土地の所有権を巡って争う。そのため水源の近くで待ち構えて、敵対する牧場の牧童が水を飲みに連れて来た牛を追い払う嫌がらせをする。待ち伏せする牧童が「喉が渇いた牛を追い払うのは可哀想だ」と呟くシーンが切ない。その水源がある土地の所有者がジーン・シモンズ演じる町の女教師ジュリー。彼女は中立の立場を取っており、ペックはそんな彼女に好意を持つ。争いを極力避ける東部からやって来た男を西部の男たちは軟弱と言う。婚約者ですら銃を使わない彼に疑問を呈する。そんな中で、ジュリーだけが東部から来た男の内に秘めた強さを唯一、理解する知識人という描き方が良い。

東部の男に対してチャールトン・ヘストン演じる牧童頭のリーチは西部の男の象徴だ。気取った山高帽を被るペックを快く思っておらず、何をするにも面白くない。そんな二人は拳銃ではなく拳で対決をする。通常ならヘストンから仕掛けてきそうだが、ペックの方から夜中に寝ているヘストンをわざわざ起こして、勝負に誘うところが珍しい。松竹セントラルのパンフレットには撮影に14時間も掛かったというエピソードが紹介されている。それによると何度もテイクを重ねる監督にヘストンが「監督は俺が嫌いなのか?」と愚痴を言ったそうだ。大平原の中で殴り合う二人の男を捉えるロングショット。殴り合いを終えてペックが発する「これが何の証明になった?」の一言が効く。タイトルのスケールに違わぬ象徴的なシーンであった。