この映画は戦後のイタリア映画界で生活に困窮しながらも細々と暮らす庶民を題材とするのを得意とする「ネオリアリスモ」の旗手ピエトロ・ジェルミ監督の代表作である。中学生の頃、私の父が持っていた「魅惑の映画音楽」というLPレコードでカルロ・ルスティケリの主題曲を何度も聴いていたのに実をいうと、映画を観たのは「午前十時の映画祭」が初めてだった。

第二次世界大戦以後の不況に喘いでいたイタリア社会の現実を直視する新しいリアリズムという意味を持つ「ネオリアリスモ」は、『無防備都市』のロベルト・ロッセリーニや『自転車泥棒』のヴィットリオ・デ・シーカといった名匠たちが数多くの名作を送り出した。ジェルミ監督は本作の主人公で鉄道運転士アンドレアを演じている。家族の中では厳格な父親だが、酒をこよなく愛し、仕事帰りに仲間とギターを奏でながら、夜更けまで飲み明かす事を楽しみとする男だ。彼を囲むように仲間が集まり大声で歌う…この酒場のシーンがイイ。撮影は監督と多くの作品を手掛けてきたレオニダ・バルボーニ。下町の風景や庶民の生活感溢れる雰囲気を捉えていた。

ある日、アンドレアは運転する機関車で線路に飛び込んできた若者を引いてしまう。仲間が「気にするな。お前のせいじゃない」と気遣うが、アンドレアは引く瞬間に「顔を見たんだ」と、気に病み、その直後に赤信号を見落として、あやうく大惨事になりかけた。近年公開されたセルビアとクロアチアの映画に『鉄道運転士の花束』というのがあった。その映画の主人公の運転士は、常に人が飛び込んで来るのではないか?という恐怖にいつも苛まれていた。思えば、ニュースでホームから飛び込んだという出来事を目にするが、そこには最前列で目撃する運転士がいるのだ。アンドレアは赤信号を見落とした事が問題となり、旧式機関車の機関士に格下げとなる。勿論、給料も減ってしまうが、そんな彼等に労働組合の人間が組合費の集金にやってくる。アンドレアは「そんな金は無い」と突っぱねる。

映画が制作された時代はソ連のフルシチョフがスターリンを批判してイタリア国内で混乱が起きていた頃。不況の矛先は労働者階級に向けられていた。労働者と共に闘うべきはずの組合は、官僚化してしまい労働者たちは正解にも困る日々を送る事を余儀なくされた。仲間たちは遂にストを決行するが、アンドレアは家族の生活を守るためスト破りを決意する。労働者にとってスト破りがどれだけ厳しい事かは、スティーヴン・ダルドリー監督の『リトル・ダンサー』でも描かれていた。父親は息子を名門のバレエ学校に入れるため仲間から冷ややかな目で見られる中を仕事場に向かう。同じようにアンドレアは仲間から裏切り者の烙印を押されるのを覚悟で家庭を守るためホームで待機していた機関車に乗り込む。この父親としての責任感とプライドを秤にかけた結果の覚悟を見せるシーンは泣かせる。

驚くのは、末っ子のサンドロを演じた7才の少年エドアルド・ネヴォラである。ローマの貧しい家庭に育ったエドアルドは、本作が初めての映画出演でありながら、天性ともいえる素晴らしい演技を見せてくれる。父が働く駅のホームにスルスルと走り抜ける冒頭から映画に引き込まれる。印象に残るのは、姉が昔付き合っていた男が運転する車の窓ガラスをパチンコで割って警察に連行されるエピソードだ。引き取りに行った父と一緒に警察から出てきた時に、天を仰ぎながら見せる解放感を満喫する大人顔負けの表情がイイ。

そして、もう一人がアンドレアの妻サーラを演じたルイザ・デラ・ノーチェである。子供たちを守り、仕事で忙しい夫の留守中の家を守る母親を演じ切ったルイザは、何と、ファッションモデルから女優に転身したばかりの作品なのだ。子供たちを厳しく叱る厳格な夫の見えないところで優しく子供たちを包み込む姿に感銘を受けた。病に倒れたアンドレアが、ベッドでギターを爪弾きながら将来の事を話しながら、ゆっくりと生き絶えていくラストシーン。彼の状況をギターの音だけで表現する手法が上手い。隣の部屋にいるサーラは、ギターの音が聞こえなくなると何かを察したように、テーブルに座って遠くを見つめる…何と素晴らしいラストだろう。