僕がこの映画を初めて観たのは中学3年の年末にやっていた深夜放送のテレビだった。深夜にやる映画番組なんてせいぜい1時間半の枠でCMを除いたら75分そこそこ。それでも受験勉強の合間にテレビにかぶりついて観ていた。年末の深夜には昔の映画が立て続けに放映されており、そんな感じで片手間に受験勉強しながらも高校にはちゃんと入れたのだから世の中、捨てる神あれば拾う神ありだ。

「誰が為に鐘は鳴る」をちゃんと映画館で観たのは高校2年になってから。札幌の須貝ビルの地下飲食店街にあった『シネマアポロン』という小さな映画館で開催された「名作シネ・ロマン・フェア」という名作の二本立興行だった。その時に初めて、この映画が2時間半ある長尺の大作だと知った。こうなると今まで知っていたテレビ放映版なんてダイジェスト版だ。ただし、その時に上映されていたのは、35ミリではなく16ミリフィルムだった…というのは後で分かったのだが、これはこれで貴重な体験だった。

日本公開は戦後間もない1952年だが、製作されたのは1943年。公開まで10年も掛かったのは、アメリカと戦争状態となった太平洋戦争があったから。撮影はスペインの山地に似た地形である事からシエラネバダ山脈で行われたのだが、パンフレットには、映画の見せ場となる戦闘機が山奥に隠れている人民戦線政府軍を味方するジプシーたちで構成される義勇軍を爆撃するシーンの撮影で、時間が過ぎても中々戦闘機が飛んで来ないため、確認したところ丁度同じタイミングで日本軍が真珠湾を攻撃しているという一報が入った。そのため飛んでくる飛行機が日本軍である可能性があるから注意するよう伝達が出て撮影は延期されたというエピソードが残されている。戦争が終わると、それまで配給がストップされていた多くの外国映画が日本に流れ込んできた…その中のひとつだ。

1939年に勃発したスペイン市民戦争をテーマとしたアーネスト・ヘミングウェイのベストセラーをサム・ウッド監督が映画化した。この戦争は、第一次世界大戦後のスペインで市民政府軍と反乱軍に分裂して内戦に発展したもので、ヘミングウェイも30才の後半まで市民政府軍側の義勇軍に加わって戦っていて、その時の体験を書いた作品のひとつである。劇中に装甲車や戦闘機が登場するが、近代兵器を初めて大規模に使用した戦争と言われる。

しかしウッド監督は戦争色を控えめにして、人民政府軍側の義勇軍に加わり敵の要所である橋の爆破を命じられたアメリカ人のジョーダンが、一員であるスペイン娘のマリアと極限状態の中で恋を育む壮大なロマンスに仕上げた。結果、この判断は大正解だった。危険な任務を間近に控えた明日をも知れない二人が口づけを交わすシーンで、初めてキスをしたマリアが「キスをする時に鼻は邪魔にならないのね」と言う名セリフが生まれた。この名字幕を生み出した翻訳家の清水俊二氏はパンフレットに、戦前、原作を初めて呼んだ時の思いを書かれている。清水氏はイングリッド・バーグマンのマリアは原作に比べて清潔過ぎると感じていたそうだ。

ヘミングウェイは映画化にあたりジョーダン役にゲイリー・クーパーを指名しており、撮影準備に掛かっていた『打撃王』と並行して同じく監督を務めたサム・ウッドと共に撮影に挑んだ。当時のクーパーは俳優としても男としても正に油が乗った頃で、それまで男の世界を描いた作品が多かったのだが、同年公開された『カサブランカ』で人気を博していた27歳のバーグマン相手にラブロマンスを堂々と演じきってみせた。

バーグマンにマリアを演じてもらいたいと切望したのもヘミングウェイだったというが、一説にはヘミングウェイは作品の出来が気に入らなく試写会の途中で席を立ったとも言われている。パンフレットには勿論、「出来栄えに満足している」と好意的なエピソードとして紹介されているが、途中で退席したという話は、バーグマンの伝記「マイ・ストーリー」で自らが記しているので、どうやら後者が正しい気がする。ともあれ、多感な青春時代真っ只中の僕は愛する人を助けるため敵の盾となるクーパーの姿に大きな感動を覚えたのは確かだ。