この映画の舞台となる19世紀のロンドンは街灯や室内の照明にガス管が送り込まれガス燈が利用されるようになった時代である。テラスハウスと呼ばれる長屋タイプの集合住宅が多かった当時のロンドンでは、各家庭に配管されているガスを共有していたため利用が集中するとガスの供給にムラが出てしまい、灯りが弱くなる等の不具合が生じるものの、それでもランプの灯りより数段明るく室内を照らすようになった。それがタイトルとなった『ガス燈』のオープニングは、深く霧が立ち込める夕刻のロンドンの街灯に、作業者が長い棒で火を灯すシーンから始まる

『ガス燈』は、有楽町にあった国内初のロードショー館としてリニューアルされた「スバル座」のこけら落とし第二弾として上映されて大ヒットを記録している。「スバル座」は当時としては珍しい全席指定席で、入場料10円の時代に25円と割高だったにも関わらず連日満員だったという。当時の状況について、岡田芳郎著による「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」の中で「映画をじっくり楽しむために高い料金を払うことを厭わなかった 。当時 、映画館とは流行発信基地であり 、とくにアメリカ映画を観ることは 、最新情報を仕入れるために必要不可欠なことだったからである 」と書かれている。何と言っても驚くのは劇場オリジナルのパンフレットだ。A4半裁の縦長仕様で36ページのボリュームで一般入場料よりも高い20円で販売されていた。内容も充実しており、淀川長治氏を始め飯島正氏、野口久光氏など8名の有識者が寄稿されている豪華版だ。

物語はロンドンの一等地にあるテラスハウスに住む一人のオペラ歌手が殺される。叔母と一緒に住み遺産を相続する事となった姪のポーラは、叔母が殺害されたショックからロンドンを離れて暮らしていた。犯人が見つからないまま10年が経とうとしていた頃に知り合ったピアニストと恋に落ちて結婚する事となる。ポーラを演じたのは『カサブランカ』『誰が為に鐘は鳴る』と主演作が続いていたイングリッド・バーグマン。戦争という時代の波に翻弄されるヒロインを演じた前作に対して、本作では彼女自身説明のつかない原因不明の奇行を知らず知らずに繰り返して精神的に追い込まれてゆく極限状態の演技を披露する。

物語が進むにつれ外出する事も怖くなってやつれてゆくバーグマンの渾身の演技が最大の見どころ。バックに入れたはずのアクセサリーが無くなったり、壁に掛かっていた絵画が外されていたり…最初は些細な物忘れ程度に考えていた彼女も回を重ねる毎に、自分は健忘症なのではないか?と不安感が増してくる。中でも印象に残るのは、自分の生活を変えようと、久しぶりに室内演奏会に出掛けていくシーンだ。久しぶりの公の場に笑顔を見せて気丈に振る舞っていたポーラだったのだが…演奏中に彼女のバッグから夫の懐中時計が出てきた時に、場所柄もわきまえず咽び泣くバーグマンの演技には観ている側も胸が苦しくなる。この映画の熱演によってアカデミー主演女優賞をもたらしたのも当然だ。

そのピアニストを演じたのがフランスの名優シャルル・ボワイエ。後年に出演したニール・サイモンの『裸足で散歩』で演じた青髭と異名を持つアパートの住人役がとても印象に残るが、本作では美形の顔立ちを活かした底知れない冷たさを持ち、若き新妻を精神破綻へ追い詰める一癖も二癖もある人物を怪演している。僕がこの映画を初めて観たのが中学生の頃で、当時ファンだったバーグマンに対して意地の悪い嫌な男を演じていたので、しばらくはボワイエが嫌いだった。まぁ、それだけボワイエの迫真の演技だった…というわけであるのだが。

そして、夫が不在中に部屋のガスランプが弱くなったり、屋根裏から不穏な物音が聞こえるようになるとポーラの精神は極限状態に達する。この時に見せるバーグマンのパニックに陥る演技は凄い。テラスハウスの不気味な雰囲気はモノトーンの映像だからこそ増長されており、『心の旅路』の撮影監督を務めたジョセフ・ルッテンバーグの深みのある陰影豊かな室内シーンは素晴らしかった。19世紀のロンドン特有のテラスハウスの屋根裏が複数の家と繋がっている特性を活かしたサスペンスは、途中でカラクリが分かってしまう難点を差し引いたとしても、ジョージ・キューカー監督らしい実直な盛り上げ方は、さすが安定感があって職人技が光る。

主人のポーラに冷たい態度を取る若いメイド役を演じたのはアンジェラ・ランズベリーだった。96歳になる現在も現役で近年はアニメの声優が多いが、印象に残るのはアガサ・クリスティの『クリスタル殺人事件』で演じたミス・マーブルだろう。イギリスで歌手としてデビューして活躍していたが『ガス燈』で映画女優に転向して初演ながらも見事、アカデミー助演女優賞を獲得した。